ある夢想家のブログから

哲学とか語学とか読書とかエロゲーとか

語学は継続が肝心

 語学をやっていると常に思うことがある。自分が今やっている勉強法はほんとうに正しいのか、と。

 

 それでいつもやっている参考書・問題集から目を離して、渡辺昭宏『外国語の学び方』や千野栄一『外国語上達法』や講談社現代新書『外国語をどう学んだか』等の「語学本」を手に取ってぱらぱらめくってみる。ああそうだな、と思う記述もあるけれど、これはどうなんだ、と思う記述や、少なくとも今の自分にこれは合わないな、と思うことまで書いてある。挙句の果てにはネットで検索し出す。ネットの情報はこれらの名著と言われる本に比べると質が低いからもっと参考にならない。そうして気が付いたら2時間も3時間も経っている。お決まりのパターンである。

 

 もういい加減気付くべきなんじゃないだろうか。語学をいかに学ぶかという方法はある程度の高みに達した人の数だけあるだろう。それを比較し研究することでどれがより正しくどれが回り道であるかを確かめることもできるだろう。でもそれは僕がやるべきことでもないしやりたいことでもない。僕はまさに語学の上達を目指しているのだ。どんな勉強法があっても、それを実践するのは自分。ああ分からないと打ちのめされながらも自分のどうしても成し遂げたい目的のためにまた立ち上がり歩き続けるのは自分でしかない。どういう参考書があってどれが優れているか、という情報は間違いなく語学に必要である。しかし参考書は自分が微動だにしなくとも勝手に語学上達の高みへ連れて行ってくれる魔法のじゅうたんではない。それに噛り付いていく自分がいなければ優れた文法書だろうと劣った文法書だろうとまったく変わるところがない。

 

 学習法や語学について調べることは必要だけど、それを目の前のタスクから逃げる手段にしてはいけないんだ。自分の当面の目標と、そこに至るための段階を設定したらもう一心不乱に勉強すべきなんだ。渡辺昭宏『外国語の学び方』にある次の箇所こそが端緒にして終局である。

 

 「ふり返って考えてみると、外国語を学ぶということについて、いつも同じ結論に到達しました。というのは、要するに、勉強さえすれば誰でも学ぶことができるし、勉強しなければできるようにはならない、という簡単な真理です。」

 

 「もちろん間違った勉強方法というのもたしかにあります。しかし、せっかく正しい方法で勉強しているのに、自信が持てないばかりに、横道にそれてしまうことの方が多いのです。単語でも文法の規則でも会話のきまり文句でも、ひとつずつ順々に覚えていく以外には手がないこと、覚えても忘れるのが当然で、根気よくくりかえす他はないこと、これは誰にとっても当たり前のことなのです。それがいやならば語学の勉強などに始めから手を出さないことです」

(「むすびのことば」より)

 

 本当にこういうのを金言というのだと思う。言われれば当たり前のことなのだが、何故か誰もが実行できないこと。それをやらなくちゃいけない。

 

 なんか深夜テンションのために実行できてもいない自分を慰めようとしてこんな文章を書いてしまっているけれど、今の僕に必要なのは短期間でフランス語と英語が「読める」ようになることなので、渡辺昭宏『外国語の学び方』に短期間で効用があると言われている暗記を試してみようと思う。いずれは文学作品や哲学書の暗記をやってみたいけれど、今のところはこれまでにやり終えてきて今も繰り返している問題集の暗記に力を入れる。哲学書を読み始めるのは7月から。それと並行して、初見の文章も読んでいかなきゃいけないのでもう一段レベルが高い参考書もやる。ただし暗記と反復学習用の教材はこの参考書で打ち止めにしておく。あれもこれもとやっていくとキリがないので。また進展があったらここに書く。

 

【語学について】しばらくの間和訳を先に見てから原文に取り掛かる学習法に切り替えようと思う

 お久しぶりで~す。って誰も読んでねーか。知ってるけど。

 

 相変わらずフランス語の学習を続けているんだけど、今までやっていた易しめの教材が終わってカッチリした哲学の原文を読む教材に入った途端、一気にモチベーションが下がった。いやモチベーションは全然あるんだけど、教材に取り組むのが一気にハードワークと化した。

 

「この語は見たことあるけどどういう意味なんだ…… まあいいやこのまま読んでいけば意味は取れるはず…… うわ見たことない語が出てきた!えっ、この前置詞どういう意味なの? このqueって関係代名詞と接続詞のどっち? そしてmétaphysiqueときやがった。この文章って形而上学の話をしてたの? 形而上学がどうしたの?あああああなんも分からん!もう嫌だあああああああ!」

 

 大体数行読んだだけでこうなるのがオチだ。思えば、僕はずっとこの学習法をやってきたし、それが唯一の外国語読解のための学習法だと思っていた。ではこの学習法はどこで身に付いたのか。明らかに中学校・高校で受けた6年間の英語の授業で身に付いたのである。いや、より正確に言えば教師からこの勉強のやり方を叩きこまれたのである。

 

 今でもよく覚えているが、授業のほとんどはある程度のヒントが提示されるとはいえ、初見の問題を解かされる訳読の時間で構成されていた。

 

 しかし、これは本当に唯一正しい学習法なのだろうか。確かに、自分で文章を読んでいて出会う初見の単語の意味を調べたり、前置詞の用法を見抜いたり、どのような構文が使われているかを考えたりして試行錯誤することは、英語を体得していく上で必要不可欠な鍛練である、という意見を言う人があるかもしれない。しかし、この学習法はセンスの良い生徒やパズル遊び的な作業が好きな生徒とは相性が良い反面、外国語の文章を読みその内容を理解するという英語学習の本来の目的を、失敗に失敗を重ねて進むしかない茨の道の最果てに据えてしまい、少なからぬ生徒に英語に対する苦手意識を植え付けてしまうのではないだろうか。

 

 僕はその作業をずっと苦痛に思いながらもひたすらやり続け、臥薪嘗胆の末志望校に合格することができた人間だ。しかし、改めて思うとこうした長文読解の方法が前提になってしまっているせいで、今でも英語やフランス語やドイツ語の長文を読む時の心理的ハードルが高い。まず原文と格闘して、ああだこうだと推測しつつ日本語に訳し、ここは合ってた、ここは間違っていたと解答と照らし合わせて一喜一憂しなければ決して先へは進めない。全体の意味を理解できるのはその作業の末に最後まで辿り着いた時だ。そして現に哲学の対訳本に取り組みながら、内容にはめちゃくちゃ興味があるのに訳読のせいで読み進めるのが非常にハードな作業になるという事態に直面している。

 

 そんな時、某読書モンキー氏のサイトにこのような記述があるのを見ておったまげた。

 

 やりかたは、問題と解答をいっしょに見て、先へ先へと進みましょう。
 説明は「はじめからていねいに」ですが、予備校ものなので、登場する英単語は受験レベルです。
 そんな訳で、問題を解きたい、という人も3周目くらいから始めるのがよいです。
 1~2週目はまずは目を通す(黙読する)こと、それも日本語訳→英文の順で読むことです。
 答え(訳文)を先に見ておくことは、心理学(学習理論)で言うところのErrorless Learning(無誤弁別学習)を行うのが目的です。「試行錯誤」を繰り返すより習得が速いことが知られています。
  具体的には、和訳読み→英文(わからないところにマーカー)→もいちど和訳チェック→最後に音読10回。全体を3セット(3周)といった感じでやります。

 

 訳を最初に読む?そんなやり方邪道じゃないのか?と最初は思ったよ。でも、試行錯誤を繰り返しながら学ぶよりも習得が速いと言われているのは気になる。

 

 思い返してみれば、中学・高校の頃にまず最初は原文と格闘して訳読しなければならないと教え込まれたのは、教育の方法にかんする性悪説的な考え方が反映されているようにも考えられる。最初に訳を配ってしまったら生徒がサボって英語に触れなくなる、だから嫌でも原文と格闘しなければならない状態を強制するのが生徒の指導法として正しいのだ、みたいな。でも今の時代インターネットで教科書の訳なんていくらでも見られる。現に僕の高校時代も、クラスの運動部の連中なんかはネットで訳が載ってるサイトを見つけてそこから写していたし、ひょっとしたら僕も今はっきり思い出せないだけで当時はそうしたことがあったかもしれない。これは原文と格闘させるなんていう教師の意図が容易に破綻することを示す事実だといえる。

 

 もういっそ、最初に日本語訳を配ってそれを活用して英文を理解させ定着させるという指導法を採用するのがいいのではないだろうか。そう思って調べてみると、金谷憲という人が『高校英語教育を変える和訳先渡し授業の試み』と題された本を出していて、「和訳先渡し授業」を実践しその結果を報告しているらしい。調べて見ると若林俊輔の『これらの英語教師』という本でも和訳先渡し法が提案されているらしいし、森一郎も『試験にでる英単語』で和訳を先に見てから英文に取り掛かることを推奨しているようだ。最近出た『ヘミングウェイで学ぶ英文法』という参考書でも、まず和訳から入ってその後原文に触れるという構成になっているらしい(勿論これは原文から入るというその逆の学習法を排除するものではないだろうけれど、構成上和訳から入ることを推奨しているのは確かだろう)。ベレ出版の『名作短編で学ぶイタリア語』という参考書の紹介ページにも、「日本語訳を先に読み、内容をつかんだうえで原文にあたるというのもひとつの手だと思います。」受験のための学校教育としての語学の世界にも教養や第二外国語としての語学の世界にも多様な意見を持つ人がいるのであり、訳読から入らせる学習法が唯一正しいものだとは決して言えないことが分かる。

 

 教育の現場となるとまた難しい問題がいろいろ出てくるだろうから、その妥当性にかんして門外漢にすぎない僕が個人的な経験則に基づいてあれこれ口を出すのは控えることにする。だが、まず和訳を見てから外国語の文章に取り掛かるというのは、独学で外国語を学ぼうとするモチベーションに溢れた人間がより楽しく、挫折せず学習を進めるにはうってつけの方法だと思う。モチベーションに溢れていればどんな苦しみにも耐えられるだろ!と考えるのはそもそも前提からしておかしい。モチベーションが高くても低くても勉強は楽しい方がいい。

 

 一通り文法を終えて少しずつ易しめの文章なら読めるようになってきたという人間(今の僕がまさにこれ)は、早く自分の外国語学習の目的としている文章を読みたいと願っているものだ。しかし、そのような目的となる文章はその言語の母語話者が読んでも価値のある文章であって、「私はトムに会った」とかその類の人工的で無機質な文章とは違い、生きた血が通っている。だからこそ難しいし、それをその言語を通して思考し理解したいと願っているのである。そうした学習者には、まず日本語訳を通して大体の意味を取り文章の「内容」を楽しんだ後で、それを表現する言語の世界へと足を踏み入れていく方がいいと思う。日本語訳を読んで終わりにするなんて発想は元から存在せず、その内容を楽しむという経験が原文で理解したいというモチベーションに繋がるのだから。

 

 自分で四苦八苦してガタガタの日本語訳を組み立てた後、訳者のお手本を見せられて自分が如何に無能なのかを思い知らされ、そこから出発してまた原文に立ち戻っていく場合、一人で格闘した長い時間が単なる消耗感にしか結びつかない。良い線までいけたと自分で感じられる場合ならまだしも、「こんな訳意味わかんないしどうせ間違ってるだろうな→はい間違ってました」というのは単なる苦行でしかない。それに対し、訳者のお手本をまず見せてもらった後原文に取り組む場合、内容に興味があるのだから最初の日本語訳を読むのは楽しいに決まってるし、それからの文章読解の作業も「こういうことが書いてあるんだな。よしやるぞ」となって充実したものになるだろう。要するに良い事づくめというわけだ。今まで何をやってきたんだろう僕は。受験のための英語を強制してくる学校教育に毒され過ぎていた。

 

 ただ、当たり前の話だがある外国語をものにするということはその言語を母語(僕の場合は日本語)の媒介なしに理解するということであって、日本語訳に頼らないと意味が取れない状態はいつか脱しなければならないもの、いわば補助輪だということは肝に銘じておく必要がある。日本語訳で一度文章の内容を掴んだらそれを原語で理解するために精読する、というやり方の欠陥はここにある。そうなると初見の文章を読むための訓練を並行させる必要もあるだろうか……

 

 まあ、先のことばかり考えていても仕方ない。語学をやる時、どの道を進むか、その先に何があるかということばかり気にして結局一歩も進まないというのは常に起こり得る事態だ。とにかく僕は今まで読書においても語学においても、受験で叩きこまれてしまった悪い癖に毒されているなと思う節が多々あるので、迷走しないよう着実に前に進んでいるかを自問自答しつつ、いろいろと今までの自分の殻を破るような勉強法を試していきたい。

フランス語進捗 20年3月中旬

 うーっす。って誰に向けての挨拶だよ。

 

 フランス語、今日中に終わらせるつもりでいながら最後の課の力だめしを残してしまったけど、明日中に『解説がくわしいフランス文法問題集』1周目を終えられそう。そしたら2周目もやる。ただ2周目は分からない単語の単語帳登録作業がないだけ早く終わりそうだし、当然ながら一度やった問題ばかりなんだからスピードも上がるはず。1日2課ずつさっさとやって、3月中にもう1周したいですね。

 

 残りの3月中で力を入れてやるべきなのは『やさしい仏文解釈』だな。今月中に2周は厳しいかもしれないがなんとか頑張りたい。2周目は紙に書いて訳さなくてもいいか。それだけスピードは上がるだろう。

 

 大学の授業がコロナウイルスで潰れたから4月はひたすら渡辺諒のフランス現代思想対訳本二冊をやることになるだろう。その前に実力だめしのテストを解くことも忘れずに。

 

 フランス語は苦心しつつも少しずつ着実に歩みを進められている気がしないでもないのだが、問題は英語ですよ。さっぱりできていない。マジで。mikanで大学受験用の単語帳をやってても結構な数の単語を忘れててショックを受ける。少なくとも単語の学習は毎日やっていかないといけないな。

 

 あとここ数日点検読書もできていない。それでいて分析読書などできるわけがない。自分の無力さを実感する日々だ。

フランス語進捗状況

 今年に入る前もやってたんだけど本格的に勉強再開したのが1月の22日で、今日で一カ月半は経過したことになる。

 

 まだフランス現代思想家の文章を読めるまでには全然なっていない。語彙力と読解力を鍛えていかないといけない。4月に入ったら院試の問題を解いて、今自分がどれくらいの実力なのかを見極めたいと思うのだが、どうなるか…… 絶望しそうで怖い。いやでもそこから始まるのかもしれんが。

 

 今月中にKKとYFKを2周するって言ってたんだけど、どうなるかな。

睡眠薬って怖いな

 睡眠薬(ベルソムラ)でやや恐ろしい目に遭ったのでそのメモ。

 

 昨晩は3時頃に寝た。眠気があんまりなかったから睡眠薬を飲んで寝ることにしたんだよね。でも寝る前にオナニーしたくなって、人間洗濯機になって汚い上履きと靴下を口で洗濯させられる同人音声を聴きながら寝ようと思ってた。50分くらいある作品だから、じっくり聴きながらオナニーしてその後寝落ちするつもりでいた。

 

 しかしこれが間違いだった。睡眠薬を飲んで眠くなってきたらもうさっさと眠るべきだった。僕は眠さに抗いながら同人音声を聴きながらオナニーするという意味不明なことをやってしまった。すると明け方から脳は眠っているのに体は全然眠れず、両者が分裂しているような不快な感覚に襲われた。脳は動いてないんだけど体がそれについていかない。眠ろうとしても眠れないというのとはまた違う、脳と体のちぐはぐさがはっきりわかるという実に不快な状態でこの時間まで過ごすことになった。いやーキツかった。

 

 これがレム睡眠ってやつなのか。しかしここまでレム睡眠の性質をはっきりと体験することになったのは初めてだ。繰り返すけど睡眠薬を飲んだらそのまますぐに寝るべきなんだよ、マイスリー然り。あー怖い怖い。

 

 「正直言うとですね、1週間ほど前からオ◯禁したら喘息や自律神経失調が治ってきましたよ。やっぱ男はなぁ…ひとりで寂しいからと言って毎日やってっと体力が保たないんだなぁ…(遠い目)」

 

 某スピリチュアル系YouTuberの言葉ですが、オナニーもほどほどにしておくべきでしゅね。

30分点検読書 六冊目:三木清『読書と人生』(新潮文庫、1974年)

※30分点検読書とは→モーティマー『本を読む本』に書いてある点検読書その1「組織的な拾い読み、または下読み」を30分でやる練習。

 

三木清『読書と人生』(新潮文庫、1974年)

1.どんな種類の本か

 エッセイ。哲学入門、読書法について。

 

2.全体として何を言おうとしているのか

 エッセイなので全体として何か言おうとしていることがカッチリ決まっているわけではないはずだが、向学心のある若者に向けていかに本を読むべきか、いかに哲学を学ぶべきか等といった勉学の指針を提示しようとする思いが全体を通して感じ取れた。

 

3.そのために著者はどのような構成で概念や知識を展開しているか

 このエッセイを構成するテーマを三つ挙げるなら、青春・読書・哲学ということになるだろうか。一つ目の青春について言えば、ハイデッガーハイデッゲル)や西田幾多郎などの名の知られた哲学者や、ドイツ留学先で共に過ごした羽仁五郎との交流。二つ目の読書について言えば、自身の読書遍歴、読書はどういうふうにするのが良いか、また翻訳や辞書をめぐる問題。三つ目の哲学について言えば、哲学をどう学べばよいかという基本姿勢への問い。

 

本の感想

 西田幾多郎ハイデガーとの思い出のところは興味深そうではあったが、重要ではないなと思って読み飛ばした。僕にとって特に重要なことを語っていて、のちのち精読する必要があるのは「哲学はどう学んでいくか」「哲学はやさしくできないか」「如何に読書すべきか」辺りかな。挙げられている人名としては新カント学派や実証主義哲学者の古めかしい名前も目立つけど、波多野精一『西洋哲学史要』など今でも全然通用するものも少なくない。

 

30分点検読書の感想

 エッセイだから30分点検読書シリーズでは初のジャンルってことになるのかな。全体としての結論を抽出するために読むというよりは、まず全体を見渡した後、気になるところをピックアップして読んでいくのがいいんじゃないかなと思う。それぞれのサブタイトルごとに何を言いたいのか把握しつつ読むのは大事だけど。

 この本とは関係ないけど、点検読書のあとのこの記録をつけるのにも時間制限を設けたほうがいい気がしてきた。ついついダラダラ書いてしまう。

風俗嬢の人生相談に付き合ってあげる僕の友人に驚かされる

 毎日毎日、気が付けば別れた元彼女のことを考えてしまっている時が必ずある。以前このブログに書いたが、僕から積極的に彼女のことを求めたことは一度も無かった。こんな自分を好きになる人間が世界に存在することが怖かったし、身体の接触を求められるとゾッとした。何よりもその人は年上だった。僕は年上の人間を対等な恋愛関係で結ばれるべき対象と考えることがどうしてもできない。要するに年下の女の子しか愛することができないのだ。もう20代も折り返しに入ってしまっているが、自分と同い年の女性を見てもオバサンだなとしか思わない。それを言ったらお前もオッサンだろと言われそうだけどそこは素直に認める。とにかく僕は年下の女の子しか愛することができない。犯罪者にはなりたくないので三次元には手を出さない。結果的に二次元美少女にしか恋愛感情を向けられない人間になった。

 

 そりゃ僕も今の格差社会、持つものが持たざる者を搾取することで成り立っているクソみたいな資本主義社会は絶対に許せないし、人は人に優しくする必要があると思っているし、困っている人には手を差し伸べるべきだと考えてる。これは嘘じゃない。だがしかし、自分の性愛に口を出されたり必死の思いで自分にとって一番気持ちがいい状態を作り上げているその領域に土足で踏み込まれたりするのだけは耐えられない。具体的に言えば僕が自分から招き入れた二次元美少女以外はそこに入ってこないでくれということである。困窮して死にそうな人がいたらそれがどんな人でも助けてあげたいと思うが、しかし物質的に困窮してるわけでもなくむしろその点については恵まれてるし少なくとも問題はないのに、異性関係うんぬんで拗らせていて辛いとか言われても、それはカウンセリングに行ったりして対応してくださいね(巻き込まないでくださいね)となってしまうのが僕である。前付き合っていたオバサンと別れてからその傾向がますますひどくなった気がする。少なくとも以前は現実の人間をできれば愛したいという思いがあったのだが(だからこそ元々恋愛対象ではない年上の人間と付き合うなんてことをしたのである)、それも今やなくなってしまった。かといって自分の理想の二次元美少女を探求しにいろんな作品に触れるつもりももはやなくて、過去にやった作品でビビッときた子たちに安住してしまっている感はあるのだが。

 

 それに引き換え、僕と同い年の友人はまったくすごいとしか言いようがない。とある風俗街で出会った風俗嬢から過去に付き合っていた(?)年下の男が憎くてたまらないという話をされ、今にもそいつを〇して自分も〇ぬくらいのことを言っているから毎日のようにメールでやり取りをし、隔週ペースで会っているらしい。もう、お前そのモチベーションがどこから湧いてくるんだよといった感じである。僕だったら毎日そんな赤の他人から自分の性愛の問題について相談を受けるなんて絶対に耐えられない。そこまで親身になって考えてあげられる友人が本当にすごいと思う。でも考えようによっては僕のような無産者が他人のために何かできることがあるかといえば、やっぱり個人的な対人関係の相談に乗ったり、愚痴を聞いてあげたりといったことしかないんじゃなかろうか、とも思えてくる。その相手が同性でなければならず異性であってはならないというのは、僕の根本的な部分に他者に対する恐れがあることから来ているんじゃないだろうか。男性と女性の関係が最終的に身体的な交わりに行き着かなければ嘘だ、なんてのは明らかに男性が女性を所有することを正当化する家父長制イデオロギーを無自覚に前提してしまっている。男性にも女性にも等しく人間として扱われる権利があると見るならば、別に身体的な交わりなんてものは最終的なゴールではないはずだ。

 

 まあいくら綺麗言を言ったところで僕が拗らせに拗らせた結果女性との偏見や先入観に基づかない関係を築けない人間になってしまっていて、またそこから抜け出すことができないことに変わりはない。そもそも普通に生活している限りで女性との友達付き合いなんてのが始まることがないんだからな。女性との恋愛が実質的に現実において不可能であるとしてもそこはなんとかしたい。苦しい。