ある夢想家のブログから

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何かに依存してしまいがちな自分

 Fate/stay night のHeaven's feelを今やってるんだけど、桜にかんする真相が明らかになったところから、やっぱりもうやめられなくなってしまっている。このままではまたUBWのように終わりまで一気にプレイしてしまいそうだ。

 

 どうも僕には何かに依存してしまう体質があるらしい。子供の時からそうだった。具体的に今依存しているものを挙げると、たった今話したゲームであり、アルコールであるのだろう。アルコールに依存してしまっていることは自分でも認めたくないのだが、週1回~3回飲まなければやっていけない体になってしまっているのは事実だ。中には週7回飲んでいるのにまだ自分は依存していないと思い込んでいる人間(うちの父親がそうなのだが)もいるようだが、僕にはこれで自分が十分依存しているように感じられる。数年前はソーシャルゲームに手を出していたが、総計20万円ほどガチャで金を溶かしてしまいこれはさすがにまずいと気付いてやめた。しかし自分の依存体質はけっきょく変わっていないように思える。

 

 依存体質というのはある種の没入体験への希求が恒常的になっている状態、と定義できると思う。脳内物質が云々とかそういった科学的な事柄に関しては疎いが、自分で主体的に何かに働きかけるのではなく、ある物に自分の意識の志向が固定され、受動的に突き動かされている状態だ。以前からそうした状態を求めてしまう自分がいる。Twitterのタイムラインを自分が眺めているのではなく、タイムラインの流れに自分が組み込まれているような状態。「酒は飲んでも飲まれるな」という言葉に端的に示されるように、自分が酒を飲んでいるのではなく、酒の方からそれを飲むことを強いられている状態。ノベルゲームの文章を自分が読んでいるのではなく、文章の流れのなかに自分の意識が組み込まれている状態。自分が映画を見ているのではなく、映画という一連の映像の流れに自分の意識が組み込まれている状態。本来それ自体として意志を持たず単なる物に過ぎない何かの方が意志を持ち、本来人間として意識を持ちあるものに対して働きかける能力を有する自己の側が、意志を持ったそのある物に対して対象化されているように感じられる経験。依存症にはこうした没入体験が付き物なのであり、僕は極めてそれに取り込まれやすい人間だと思う。

 

 こうした没入体験に入り込むのは何故気持ちいいのか、何故それを多くの人が求めてしまうのか、それは良く分からない。これは哲学的には「アクラシア」と言われる問題であり、古代ギリシャソクラテスアリストテレスから現代に至るまでその本質が問題にされてきた。しかし、依存症という問題にかんして究明するのと、自分自身で依存症から脱却するのは別の問題だと思う。僕の知り合いの哲学研究者が「知り合いにアクラシアの研究をしている人がいるけれど、その人自身はヘビースモーカーで2時間も煙草が吸えないと目に見えてイライラし始める」と言っていた。これは依存症について知的な照明を与えることと、自分自身そこから脱却することが――少なからず重なり合う部分はあるのだろうけれど――究極的には別問題であることを示している事例だといえる。

 

 僕は世間一般で依存症になり得ると言われているものには一通り触れてきた。その中でパチンコ、煙草、ソーシャルゲームは短期間でやめられた(ソーシャルゲーム以外はそもそもある程度の依存症になる前にやめてしまった)。しかし女性(ただし二次元美少女)、性的欲求(ただしオナニーに限る)、ゲーム(ごくまれに面白いのを見つけると依存的になってしまう)、酒(飲み始めた時から数えてもう5年はやっているのだから十分依存症だといえるだろう)はやめられない。あと二郎系ラーメンをここに数え入れてもいいかもしれない。依存する対象にかんして個人差があるのは何故かというのも気になるのだが、それはさておき、僕は今挙げた四、五の対象に依存してしまっていることは間違いない。そうして自由な時間が与えられればそうしたものに使ってしまいがちだ。

 

 できればこうした対象への依存から脱却したい。女性も性的欲求の充足もゲームも酒も、それ自体節度を持って楽しむということができればよいのだが、僕にはどうしてもそれができない。一度やり始めると、もうこのまま行き着くところまで行き着いてしまえ、という気持ちになってそのまま突き進んでしまうのだ。その後でどうしても虚しくやるせない気持ちになってしまう。酒について言えば単に薬物の効果によって脳をバグらせてハイになっている薬物中毒だし、最近では飲んでいても楽しいと思うことがなくなってきてしまったのでもう完全にやめようと思っているのだが、人生で楽しみがあるのはいいことだと思う。しかし、僕は人生に楽しみがあるということよりも、その人が自分の人生で自由たりえていることの方に価値があると思う。だから依存症的な楽しみ方は人が善く生きる上でどうしても避けなければならないと思う。

 

 さて、問題はどのようにしてそれを実行していくか、なのだが…… これはまさに「わかっちゃいるけどやめられない」であり、僕はこれを書いた後、充電が終わったスマホを手に取り、F/snHFをプレイし始めてしまっているに違いない。ほんとに「わかっちゃいるけどやめられない」だし、辛い。今はこれをなんとかしなきゃいけないものとして認識できただけ良しとしよう…… アディクションに対応できるように心を鍛えていきたいと思います。