ある夢想家のブログから

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哲学の大学院に行くべきか否か迷っている

 大学院に行くべきか否か、正直言って分からなくなってきてしまった。

 

 もちろん僕がブルジョワ家庭出身でありろくに働きもせずに生きていけるならば迷わず大学院に進むのだが、とことん若きプロレタリア階級に冷たいこの日本では真の意味での「奨学金」はほぼ無いに等しく、あるのは「奨学借金」のみである。大学院に行くとなると「奨学借金」として200万円程度の借金を背負うことになる。200万円。

 

 今までよく考えてこなかったが、僕にこれだけの借金を背負うだけの覚悟があるのか。過去にコンビニやスーパーやおもちゃ屋でバイトしたことがあるが、そこで稼いだ額は総計200万円どころか100万円にも満たないと思う。大学院に行くということは、過去にしてきた総労働の倍以上の負担を背負うということであり、その意味は決して軽く考えてはいけないものだ。もちろん返せなければすぐ家に黒服の屈強な男達が押しかけてドアを蹴り上げてくるとかそこまでではないだろうけれど、200万円という借金を背負うことによって僕は真綿で首を締められるような苦しみによってその先じわじわと蝕まれるに違いない。果たして僕にそんなことができるだろうか。こうした実際的な問題がまず一つとしてある。

 

 そしてそれとは別に、僕にとって大学院に行くことは本当に意味があるのだろうかという問題がある。僕は哲学の院に進もうと思っているのだが、大学院とはなぜ生きるのか、人生で何をなすべきなのか、確固たる真理は存在するのか、人はなぜ道徳的であらねばならないか、云々といった哲学の問いを自ら探究する場としての意義を直接的に有する場所ではない。哲学に興味を持つ人なら誰しもこうした問いを抱いているとは思うけれど、大学院ではあくまでそれは個人的な研究への動機として胸の裡に忍ばせ、着々と論文を仕上げ、日本の哲学研究にとって意義のある学問的な貢献を果たさなければならない。しかし僕がやりたいのは本当にそんなことなのだろうか。

 

 青臭いけれど正直に書くと、僕が一番切実に知りたいのは人間的であるとはどういうことか、また人間的に生きるためには何をなすべきか、ということだ。極めて抽象的な問いではあるが、しかし人として生まれてきたからにはこの問題を一生かけて追究していくべきだと思っている。それは単なる静観的・観照的な思弁の立場から体得される外的な対象としてあるのではなく、自分が人間という存在のなかを切実かつ誠実に生き抜くことによって、知と存在の次元の双方を包含するものでなくてはならないだろう。そのためには当然ながら、曲がりなりにも恐らく人間として生きてきた自分の生を唯一の参照項として思索しなければならないはずだ。まあこれは今本題として取り上げるべきことではないからひとまず措いておくが、こうした問題意識は恐らく哲学研究をやる大学院で直接的に求められるものではないのだ。あくまでも便宜的にだが、僕が今少し書いたような哲学的思索と大学院での哲学研究は別のものとして考えておいた方がいいのではないかと思う。

 

 正直言って僕は今言ったような意味での哲学研究をそつなくこなす自信がない。コツコツ積み上げるのがどうしても苦手だし、それを限られた一定期間に要求されることに耐えられるかどうか分からない。いや苦手だとかやれるかどうか分からないとか言っている時点で、僕には研究の適性がない可能性が高いんじゃないかと思ってしまう。大学院に行きたいという僕の思いは、もう一度大学に通いたい、「学生生活」をもう一度味わってみたいという未練に突き動かされているだけのものじゃないだろうか。そして何よりも重要な問題は、僕は大学院で哲学の専門的な教育を受けた者としての肩書を貰い、あわよくばそれで哲学に関して一定程度精通した者として認められようとしているだけではないのか、それはある程度普通とはズレたルートではあるにせよ、結局はもっと分かりやすく凡俗な例と本質的に何ら変わるところのない名誉欲・功名心のあらわれなのではないのか、ということだ。そんなことなら大学院に行かずさっさと就職した方がいいだろう。

 

 キルケゴールマルクスサルトル…… 僕が尊敬している哲学者には少なからずアカデミズムの世界からは外れたところで強靭な精神力をもって思索を続け、有象無象の職業哲学者などよりもずっと壮大な哲学の地平を切り拓いてみせた者たちがいる。僕は哲学者などと名乗るのすらおこがましい人間だけれど、こうした哲学者たちからはその時代における学術研究の世界だけが人間についての学としての哲学を規定しているのではないということを、つまり言い換えれば知を愛するという生き方を実践することはアカデミズムの世界で生きる人間の特権ではないということを教えられる。

 

 大学院に行くという選択肢については見直してみようと思う。勉強は続けていくが、院に行くことを前提とした形にはしない。今はこのコロナショック(関係ないけど「コロナ禍」って言い回しは変だと思う)だから、しばらくは家に引きこもっているつもりだけど、自分なりにサルトルなんかを読んでこれからどう生きるべきか考えていきたい。