ある夢想家のブログから

哲学とか語学とか読書とかエロゲーとか

ゲーム依存、感情依存

 今日も某ノベルゲームを12時間くらいやっていた。ホント、自分のダメ人間っぷりにうんざりしてしまう。1日1時間と決めて楽しむ分にはいいんだけど、どうしてもそういうふうにはできない自分がいる。1分たりともプレイしないか、それともこうして一日中プレイしているか、そのどっちかに傾いてしまいそうになる。ホント、意志が弱い。

 

 仏教の十戒には不歌舞観聴があり、また八斎戒には不得歌舞作楽塗身香油戒がある。どちらも歌曲や演劇の鑑賞を禁じている。感情をむやみやたらに振り回そうとするものに身を委ねて自己を忘れるのは仏教徒としてあってはならぬことだ、としてこれらを禁じる戒律があると聞く。僕は仏教徒ではないが、仏教の教えの根本にシンパシーを感じている人間としてこうした考え方はある程度理解できる。娯楽として読むのに適した小説の類は、基本的に我々の感情に働きかけてきて、それらを揺り動かすことで我々に満足を得させる。しかし、この効果はアルコールやギャンブルに近いと思う。この手の満足に終わりはなく、それを追求すればするほどズブズブと沼に嵌っていくのだ。これを繰り返すたびに平凡でつまらない、何の刺激もない日常とそうしたアディクションによって得られる強烈な刹那的快感との間の溝はどんどん深いものとなっていき、日常に生彩を与え我々をリラックスさせてくれる効果を求めてこれらの対象を消費、享受するのか、それともこれらを消費・享受することで我々の日常がつまらないものとなってしまっているのか、区別がつかない状態になる。だったら原則としてそのようなものとは縁を切るべきである、というのが仏教の教えだろう。

 

 今日やっていたノベルゲームも、まあこれはこれで面白くて考えさせられる作品ではあるのだが、僕が自分の人生をより自由に生きることの障害になっているのは認めざるを得ない事実だ。僕は喜怒哀楽といった感情にあまりにも引きずりまわされるのは避けるべきだと感じる一方で、それらが人間という存在の本質にかんして何ほどかを語っていると認めるにやぶさかではない。ただそれらを求めて生きるような生に虚しさを感じてきたことも事実だ。僕は今までの人生をそうした永遠に完結することのない感覚的満足を求めて生きてきたきらいがある。だからそうした自分を一歩引いたところから冷静に見つめるべき時期が来たのではないかと思えてきている今日この頃である。人間的であるということにかんする探究に燃える知識欲だけはそれがどんなに煩悩呼ばわりされようが捨て去るべきではない、というのが僕の意見だが、それを実行するためにもなるべく感覚的・感情的な依存の対象から離れた生活を送っていきたい。