ある夢想家のブログから

哲学とか語学とか読書とかエロゲーとか

30分点検読書 五冊目:アニー・コーエン=ソラル『サルトル』(石崎晴己訳、文庫クセジュ、2006年)

※30分点検読書とは→モーティマー『本を読む本』に書いてある点検読書その1「組織的な拾い読み、または下読み」を30分でやる練習。

 

アニー・コーエン=ソラル『サルトル』(石崎晴己訳、文庫クセジュ、2006年)

1.どんな種類の本か

 サルトルの評伝。文庫サイズでほどよくコンパクトにまとめられている。

 

2.全体として何を言おうとしているのか

 サルトルとは、教義ないし作品系である以前に、一つのモデル・一つの実践として捉えられるべきである。さまざまなテクストや彼の行動を一つの有機的な全体として示そうとする試みがなされている。またサルトルとは反権威的である限りにおいて全体化の作用を果たす知識人であり、アルジェリア戦争へのアンガージュマンに見られるように抑圧された者の側に立とうとし続けた。

 

3.そのために著者はどのような構成で概念や知識を展開しているか

 実際に生前のサルトルと知り合いであった筆者は伝記的事実を主軸としてこの知的巨人の全体像、少なくともその輪郭を提示しようとしているようだ。一読した後で目次を見てみても、サルトルを小説家や哲学者といった一つの型に当てはめて語るのではなく、それらをサルトルという全体のなかの一つの契機と捉える筆者のスタンスが伝わってくる。

 

本の感想

 結論部分を読んでみても、哲学者や小説家といった枠にとどまらず、常にそうした枠に囲い込まれることを拒否しようとしつつ、だからこそ哲学者や小説家でもあったサルトルという筆者の理解が提示されていて、これは僕の持っているイメージとかなり重なり合う部分が大きい。ただ、全体全体と言う前にその各部分への理解が先だっていなければならないというのは確かに言えることであって、僕に欠けているのはその点だと思った。印象に残った名詞を適当に書き出してみるだけでも、アメリカ小説・映画・マルクス主義毛沢東主義現象学・ブランシュヴィック・ソクラテスフランス共産党マラルメヤスパース等々と多岐にわたっておりその活動の全貌を知るには相当な領域をカバーしなければならないことが分かってくる。その点でそのすぐ後に出てくる(実はサルトルの生前に皆登場していて同時代人だといえるのだが)フランス現代思想の面々の先駆者であったといえるだろう。サルトルが実存哲学をベースにしていたってことはほぼ間違いないと思うけど、それを前提として常に変化し続けたその全体像を捉えるにはどうすればいいのか。途方に暮れるが是非ともやってみたいと思った。

 

30分点検読書の感想

 先日読んだ少年Aの両親の手記と同様、一人の人物を主題とした評伝であり、点検読書で掴むべきなのはその人物を一言で表すとすればどんな人なのか、という点だろう。結論部分を見つけてそこを掴めたからまあ点検読書としては成功ではあるかな。ただ、評伝というのはその人の人柄が表れている逸話だったり意外な人物との交流を表すエピソードを楽しむものだと思うから、この人はこういう人だったんだよと言うだけではやはり物足りない。点検読書だから物足りなくていいんだと思うけど。

30分点検読書 三冊目:「少年A」の父母『「少年A」この子を生んで…… 父と母 悔恨の手記』(文春文庫、2001年)

※30分点検読書とは→モーティマー『本を読む本』に書いてある点検読書その1「組織的な拾い読み、または下読み」を30分でやる練習。

 

「少年A」の父母『「少年A」この子を生んで…… 父と母 悔恨の手記』(文春文庫、2001年)

1.どんな種類の本か

 97年に起きた神戸連続児童殺傷事件の犯人である少年A(当時14歳)の両親が書いた手記。

 

2.全体として何を言おうとしているのか

 全体として伝えようとしていることがあるとすれば、それは加害者家族による手記らしく、少年Aが拒否している世間に対する謝罪、被害者親族への謝罪という「社会的責任」を遂行する意思の表明だろう。しかし内容としては事件が何故起こったのかを分析するものというよりは、母親として少年Aを育てた日々・共に過ごした日々を回想しつつも、少年Aが何故こんな事件を起こしたのか分からない、そんなことをする子には思えなかった、と途方に暮れる記述が目立つ。

 

3.そのために著者はどのような構成で概念や知識を展開しているか

 父親も著者として名を連ねてはいるが、「この子を生んで……」という題名から分かる通り、母親の手記の方が印象に残る。また実際母親が書いている部分の方が多い。育児日記から事件を起こすまでの小学校・中学校時代の少年Aが母親からどう見えていたかが飾り気なしに綴られている。

 

本の感想

 クソ汚い本屋に100円で放り出されてた本。一昔前はベストセラー本だったらしいが、ベストセラー本なんてのは時間が経てばこうなるもんやね。

 僕が少年Aが起こした神戸連続児童殺傷事件を知ったのは中学二年生の時だったと記憶している。その時の僕はAとまさに同い年だった。僕は中学校から高校にかけて不登校気味で、集団生活が苦手だった。また小学校の時の図工の時間に、何か特定のモデルを用いるのではなく自分の心情をいろいろな色を使って自由に画用紙に表現してみよう、みたいな課題が出た時、凄まじく暗く陰鬱な色を使った作品を仕上げてしまったことがある。それで母親に相当悲しまれて心配された記憶がある。中学3年生の時の美術の時間に「これからの自分の人生を絵にして表現しよう」みたいな課題が出された時は、断崖絶壁で二つに分かれた道の前に自分が立っていて、一方には大量のナイフが置かれていて、もう一方には何だか忘れたがナイフと同じような不吉なモチーフが配置されているという絵を描いて、こんな暗い絵を描くのはやめなさいと先生に注意されて描き直すことになったのを覚えている。今から考えればどんな絵を描こうと自分の自由だし、無理矢理明るい未来に歩んでいくような絵を描かせるのには少しでもズレたところのある人間を抑圧しようとするこの生きづらい日本の同調圧力が見事に発動してるなあと思えてしまうのだが……

 なんか自分語りをしてしまったが、僕はどうしても少年Aの過ごした陰鬱な少年時代を自分と重ね合わせてしまうところがある。他人事だとは思えないのだ。だから僕はこの本で母親が世間に対しておこなっている必死の弁明と、そこで持ち出されてくる母親の目から見た少年Aの像が、少年Aの意識の内側から見た世界、彼の目に映ったこの世界に対する問いかけやそこに附与しようとした意味の内容と絶望的にすれ違っているのを感じてしまう。僕は「元少年A」が5年ほど前に出版した『絶歌』も読んだけれど、あそこで彼が漏らした「僕にはなぜ人を殺してはいけないのか、未だに分からない」という言葉は、世間一般がある価値観を是とし、それに対して問いかけを行おうとする態度をそもそも認めまいとする圧力をかけたところで、絶対にそこに適応できない人間が確かに存在するのだという事実を物語っているものだと思えた。僕は今まで少年Aのような犯罪を起こさずに何とか生きてこられたが、一方間違えたら少年Aになっていたかもしれないし、これからもそうならないなんてことは決して断言できないのだ。

 この本は僕にとって『絶歌』と合わせて読むことにより、世間一般から求められた犯罪に対する社会的責任の遂行という事態に直面したとき、自然とそこに前提された「人を殺してはいけない」という価値観を疑うことなく遂行できる母親と、それを行わなければ生きていけない人生を選んでしまったものの、そもそも何故自分のなしたことが悪なのかが分からず戸惑い、しかし戸惑いながらもそのズレを埋めようとする無益な努力を重ねようとする子供のあいだに絶対的な断絶が存在することを見せつけてくれた気がする。

 以前の抽象的な問題ばかり考えている哲学青年の僕にとってはそうした少年Aの問題意識の方が圧倒的に根源的で重要なものであって、世間一般の側に自然と向き合おうとする姿勢を身につけている彼の母親の立場は表面的だと思えたけれど、むしろ今の僕は同じ家庭、同じ社会で育った親と子のあいだでどうしてそうした精神構造の極めて大きなズレが生じてきてしまうのか、それを問いかけていくことが一番大切であると考えている。それは人間に最初から存在する、漠然としてはいるが形式としてはすべて同等な意識という主体を認めて、その主体が同じ社会を生きる仕方の違いによって生じて来るズレなのか。それとも人間にはもともとそうした主体を認めるべきではなく、主体を形成する社会の方がそれに先立っていると考えるべきか。恐らくそれはどちらも認めなければならないことであって、その相互作用を具体的に分析していく必要があるのだろうな。

 

30分点検読書の感想

 273頁ある本だったけど、最後の100頁くらいは一気にパラパラめくって読み飛ばす形となった。そもそも最初から順々に頁をめくっていって重要な箇所を見つけていく、という読み方自体があらゆる場合に正しいとは限らないんだろうな。手記ということで文章は読みやすかったが、結論を導き出すための議論が展開される本ではないので、どこが重要なのかを客観的に判別しにくかった。少年Aの両親が世間や被害者家族に対して謝罪するところが重要だともいえるかもしれないけれど、ぶっちゃけ加害者家族の手記なんだからそういう記述があるのは当たり前なんだよね。精読する必要はないな、というのが本を読んでの率直な感想だ。こういう結論に行き着くのも点検読書の効用ではあるか。

30分点検読書 二冊目:赤川学『性への自由/性からの自由』(青弓社、1996年)

※30分点検読書とは→モーティマー『本を読む本』に書いてある点検読書その1「組織的な拾い読み、または下読み」を30分でやる練習。

 

赤川学『性への自由/性からの自由』(青弓社、1996年)

1.どんな種類の本か

 ジェンダーセクシュアリティを専門とする社会学者の赤川学が、ポルノグラフィを歴史社会学的に分析しようとした本。修士論文を大幅に加筆したものなので、分量としては200頁ほどだが研究書に分類されるだろう。

 

2.全体として何を言おうとしているのか

 ポルノグラフィが個人を性的主体として確立するための装置として機能していること、またそうした装置としてポルノグラフィが登場するためにはそれに対応する歴史的社会的条件が生成してこなければならなかったということ。

 

3.そのために著者はどのような構成で概念や知識を展開しているか

 著者が自分のことを愚直なフーコー主義者であると言っている箇所があるが、主としてフーコーの言説分析に依拠して論が展開される。取り上げられるポルノグラフィとしては18世紀の『ファニー・ヒル』から現代日本のエロ雑誌まで多様であり、ざっと眺めるだけでもなかなか楽しい。研究書らしく先行研究を踏襲してセクシュアリティやポルノグラフィといった基本概念を検討する箇所がある。

 

本の感想

 昨今いろいろ話題になっているからそれに触発して本棚の肥やしになっていた本を再び手に取った。Amazonで見るとちょうど1年前に注文したようだ。何故これを買おうと思ったのか、今から考えればよく分からないほどのちゃんとした専門書。ジェンダーやポルノグラフィやフェミニズムの基礎知識なしではついていけないし、エロ本をこんな真面目に分析してるよワロタで終わってしまう恐れがある。ツイッターでの表現の自由戦士フェミニストの泥沼の争いの根っこはこうやって研究の歴史の蓄積によって作り上げられていったんだなと思えた。またこの領域にも立ち返る必要が出てくるだろう。

 

30分点検読書の感想

 30分をどういうふうに使ったかというと、最初の5分はまえがき・あとがき・目次を見て、それから20分くらいで最初の100頁くらいを飛ばし読みしていって、残りの5分で慌てて残り半分の100頁を一通りめくるという感じ。最初の5分の使い方はたぶん間違ってないと思うけど、そこからはもうちょっと万遍なく必要な箇所を見極めてバランスよく読んでいくべきかなと思っている。骨組みとその中の作者の主張(つまり核心)を抽出するのが点検読書の目的だからな。ディティールは必ずそれを言う必要性が骨組のなかで見出されるからこそ登場する。そこらへんをなる早で見抜けるよう訓練していこう。

 今回読んだ本は研究書だったからなあ。前提知識ゼロというわけではない(専門家が100だとしたら僕も1か2くらいは前提知識がある)。ただ、研究書は自分の専門分野じゃないと点検読書で得られるものがあんまりないかも。明日はまったく違ったジャンルの本を読みます。とにかくいろんな本に触れることを今は一番大事にしよう。短時間でそれをやれるのが点検読書の利点だしね。

過去を生きるという仕方で現在を生きてしまう自分

 昨晩の「酔って過去を振り返る」とかいう記事、もう文章がめちゃくちゃで日本語になってないけど、ビール2本と梅酒1瓶を空けてろくに文章も書ける状態ではなかったのだから仕方ない。いまはまだ若干酒が残ってる感じはあるが、さすがに文章があんなふうになるようなことはない。

 

 酔って僕が何をするかというと、ひたすら不毛なことだけだ。Twitterで愚痴るとかしょうもないYouTuberの動画を見るとかね。エロゲーをやろうかなという気持ちにもなるのだが、これは名作だなと思っている作品は酔っぱらってプレイしたところで記憶に残らないから、しょーもない抜きゲーしか世の中には酔っぱらったりクスリをキメた状態で創作活動や執筆活動をやってのける化け物がいるそうだが、僕には到底真似できない。

 

 しかし酔っぱらって僕がやってしまうことの中で最も不毛であり、なおかつ僕の人間性が含むなにか重要な問題の一端を指し示していると思われる行為は、過去の自分の日記を読み返したり、過去の自分に関係のある音楽をひたすら聴いたりする一連の反復衝動の表出である。酔うとその人の本質が出るという俗説はよく耳にするが、そうした僕の一連の行為はまさにそれだ。これは何も酒を飲むようになってから始まったことではない。小学生の頃から、わざわざ引っ越してくる前に住んでいた家の近くの公園に行ってそこで遊んでいた日々を思い出しながら、一人で涙を流していた記憶がある。

 

 何故かは分からないが、過去に執着してしまうのが僕の性質になってしまっている。1年前のことを懐かしみ、あああの時はこういうことをしていて、当時の自分はこんなことを思ってこんなことをしていたんだなあ、随分変わったもんだなあ、と事あるごとに考えてしまう。というかそうやって過去のことを振り返るのが自分の生における一つの目的と化している節すらある。

 

 僕はあらゆる物事を目的論的に突き詰めて考える方なので、こうした僕の行為もそれ自体が目的化しているように見えながら、実はその先にある更に高次の目的を目指す手段なのではないかと考えたくなる。過去を振り返ることで僕が得る快感は、それを手段として用いることで僕が何らかの目的に到達しようとしていることの証左なのではないか。

 

 ある哲学者が、過去とは死体のようなものだと言っているが、僕はいまこの文章を書きながらその言葉の意味を噛み締めている。確かに、ある時には大して意味を持たなかった過去が後になってまた別の意味を持って現れてくるようなことはあると思うが、それは私が現在において、未来へ向かう存在としてその過去を既に乗り越えたものとなし、私にとって対象化されることでしか意味を与えられない存在とみているという絶対的な前提のもとで言えることであって、私の現在を乗り越えていく自立性をもった過去は存在するはずがない。それは死体が再び動き出して生者を脅かす可能性がフィクションの題材以外の何物でもないのと同様のことだ。

 

 僕は現在の僕に対して決して完璧な満足を得ることができない。それは人間が未来に向かう存在である以上、今の僕もまた乗り越えられていくであろうことが分かっているからだ。しかしそこで想定される未来の僕という主体は、現在の僕が未来へ向かっていく限りで初めて生み出されるのであって、目的論的に措定された終局に在る主体がそこへ向かう過程にある僕を操っているのではない。僕が主体性を認めるのは常に現在を生きるのりこえの力を持つ主体としてのこの僕自身であり、そこに立脚しない哲学はすべて欺瞞だと言ってもいい。これが僕の立場だ。

 

 僕が過去に執着してしまうのは、今の僕にとって死体に過ぎない過去を対象化することで自己の権能を確認したいという衝動に基づいているのだろうか。いやしかし、僕が過去を想起している時、そうして得てくるのは決してポジティブな充足感などではなく、むしろある種の物悲しさであるように思う。過去の自分は――たとえそれが一分前であろうと一年前であろうと十年前であろうと同じことだが――僕がそれをもう一度そのあるがままの形で生きることが絶対に不可能な何物かであり、そうした意味で現在の僕から永遠に隔てられてしまっている。昨日飲んだビールを今日も買ってきて飲んだところで、それは成分がミクロのレベルで寸分違わず一致していたとしても、僕にそれが現れる仕方としては昨日のビールに次ぐ今日のビールとしてあるのであって、それが昨日のビールそのものとして現れることはありえない。未来へ向けての現在ののりこえは、その根源的な反復不可能性の引き受けとしてしか経験されないのだ。

 

 中学生、高校生の時の日記を見てみると、ひたすら過去を振り返って、あの頃は懐かしいなあだとかあの頃は楽しかったなあだのと書いている。大きな全体の流れだけではなく些細な出来事にいたるまで、過去をまるで宝物であるかのように取り扱いそれを取りこぼさないようにと必死な僕の姿がそこにある。しかし、それらの過去を通して僕が見ているのは常に現在の自分の在り方だ。過去は現在の自分が得てきた経験であると同時に、二度とそれを同じ仕方で反復できないという喪失でもある。その過去の両側面は僕の現在にとって初めて意味を持つ。

 

 いやしかし、本当に重要なのは過去を見つめてそこに溺れることで生きるのも、過去を見つめずにひたすらその日の生活に追われて生きるのも、結局は現在僕がどう生きるかという在り方の選択でしかないのだ、とすべてを一緒くたにしてしまうことではない。なぜ僕が後者ではなく前者によって現在を生きる道を選んでしまうのか、またそれが僕にとってなぜ価値を持つものとして受け取られるのか。問題はその差異にある。今のところそれが一体なんなのかはよく分からないし、だからこそ自分の頭だけで考えていても分からないことを本を読んで学んでいく必要があるわけだが。

酔って過去を振り返る

 今日は昼過ぎにビールを1本飲み、夜にビールをもう1本と梅酒ひと瓶を空けてしまった。いま結構酔っぱらっているほうだ。僕が酔って何をするかというと、読書や語学などの最上級に有益なことができないのはなあ。

 

 まただまだ国会でtぴjぴおうぇまmうぇ

 

 過去を振り返っても意味などないのである。すでにその時の自分は何らkの立ですでに乗り換えられているか、生起してきた跡の自分は既に別人だからだ。

 

もっと書き太古ことはありけどここへんで寝る。

性愛についての覚え書き

 僕は20代半ばにして童貞だ。彼女ならいたことがあるが、積極的に望んで付き合ったわけでもなくすぐに別れることになった。その時の体験から僕が学んだのは、僕は現実の人間を性愛の対象として受け入れることが不可能な人間なのではないかということだった。

 

 もともと彼女のことを性的な対象として見られなかったし、ベッドの上でキスされた時も、世間の他の大多数の人達が感じられるであろう身体的接触による安心感や快感といった類のようなものはまったくなく、なぜこの人はこんなことをしたがるのだろう、という非常に醒めた気分でその状況を客観視しているかのような精神状態であったように記憶している。他人の唇と自分の唇を重ね合わせるという行為に嫌悪感しか覚えない僕がおかしいのだろうか。真っ赤なナメクジが重なり合って交尾(ナメクジがそうした形での生殖をするかどうかはともかくとして)しているのを見た時にどのような気分になるかを想像してくれればそれは僕が異性と自分のキスに対して抱いている印象と大体同じものなのではないかと思う。そんなふうにしか彼女のことを見られなかった以上、付き合いが長く続かなかったのは当然のことだったといえる。

 

 ではそんな僕が性愛全般に対して悉くそのような嫌悪感を抱いているのかといえばそんなことはなく、他人がセックスしたり付き合ったりする分には勝手にすればいいと思っている。そして僕自身にかんしても、普通にオナニーもするし女の子のことを可愛いなと思ったりもする。むしろより正確に言えば僕はオナニー以外の性愛を必要としていない。オナニーに用いる対象は視覚を通して与えられる外界の像であることもあれば、自分の頭の中に存在するイメージであることもある。しかし重要なのはそれらは意識を通して初めて対象という地位を与えられるという事実だ。その対象はそこで既に僕の意識に包摂され、カント的なカテゴリーがそこで作用するのかどうかはともかく、僕の意識を超え出ることのないそれはもはや自立的かつ能動的に僕を対象化することなく、僕によって対象化される純粋な受動性しか持っていない。僕にとってはその状態こそが性愛の対象として最も心地よいと感じられるのだ。

 

 もちろん僕だって人との関わりを持ちたいと思っているし、相手から自分がどう見えているかを知らされることによって、自分が成長できるのだという経験則からくる確信がある。しかしそれはあくまでも性愛という領域の外部にある他者との関わりであって、それとは逆に性愛において自己が対象化されることに対して強い嫌悪感と恐怖感がある。こうした性愛に対する僕の向き合い方の根底に潜んでいるのは果たして如何なる性質の要求なのか。またそれは人間の在り方全体に対してどのような意味を有するものなのか。僕はこのようなことを今まで考えてきたのだが、何か答えを得るには至っていないし、もっと正直に言えば性愛に対する態度というのは「人それぞれなのが普通だし別にそれで問題ない」という結論に回収されてしまうのが常であり、僕もそっちに傾いて思考停止してしまいがちになっている。もっと深く考えてみたいなとは思うのだが、それに必要な知識の持ち合わせがそもそも極めて乏しいし、なかなかそういう時間もないのが現状だ。

 

 性愛一般に対する僕の認識、立場、疑問の輪郭を描き出すならば大体こんなところなのだが、その内部で僕が抱え、直面している問題として、性と愛の分裂という状況がある。性愛という言葉で一括りにされるくらいだから性と愛というのは世間一般ではある程度一致しているものなのだろう。しかし僕の場合その両者が分裂している傾向にある。

 

 具体性を出すと一気に卑俗な話になってしまうが、具体的に言えば次のような事態僕は二次元美少女が大好きで、幼少期には某国民的アニメ(今や国民的になっている、と言った方が正しい)のヒロインに、中学生の時には今年久々のアニメ化が発表された某作品のキャラクターに恋をした。しかし僕はそれらのアニメキャラクターに性的欲求を感じることができなかった。後者のヒロインのえっちな二次創作イラストで抜こうとしたが性器がなかなか勃起せず、そのキャラクターの関連スレッドに「〇〇ちゃんのえっちなふとももを見ると勃起してしまう」と書かれているのを見て、何故僕はそうならないのかと悲しくなった記憶がある。では僕が何に興奮するのかといえば、三次元の女優や芸能人に対するマゾ妄想である。某女優がブランド物の服を着て椅子に腰かけている写真を見ると否応なしに興奮してしまう。特にハイヒールを履いてそこから白い足指がのぞいているのを見れば、跪いてそれを舐めたいと思ってしまい、自分がそうしている光景を妄想してオナニーしてしまう。もっともこれは今の話で、さきほど例にあげた二つの二次元キャラクターに恋をしていた当時はそんなことはなかったかもしれない。ただ、後者の某作品のキャラクターに恋をしていた当時、そのキャラクターには興奮しなかったが修学旅行でクラスの女子が男子を蹴り上げるのを見てそれで興奮してオナニーした記憶があるので、そうした分裂は結構前からあったんだと思う。自分の性的嗜好はある一定の法則と傾向によって括れるようでいて、そこから溢れ出る部分が常にあるから難しい。もっとも、人間とは変化していくものである以上それはむしろ自然なことかもしれないが。

 

 ざっくり言って僕の性的嗜好には次のような二項対立が見て取れる。対等な愛情/マゾヒスティックな関係、二次元/三次元、年下/年上、の三つである。このうち一番初めの「対等な愛情/マゾヒスティックな関係」については、僕は対等な愛情をもはや求めないようになり、マゾヒスティックな関係が自分にとって本来的なものであると受け止めるようになった。一番初めに書いた彼女との別れもそれが遠因になっているが、僕はこれに関してはもう自分はマゾヒストとして生きるしかないと考えているため、特に後悔もないし不満もない。正常な恋愛ができない人間がいるのは仕方のないことだ。

 

 ただ、二次元/三次元、年下/年上については未だに性と愛との分裂があり、葛藤がある。僕は今でも二次元キャラクターの方が三次元の人間よりも純粋で美しく尊い存在なのだという確信を抱いている。だから上述のような三次元の年上の芸能人・女優に対するマゾ妄想で興奮してしまう自分の性愛の在り方をこれは一体何故なのか考えてみたのだが、二次元の年下の女の子が普遍的にそのような存在でありそれがこの世の真理であるなどという押し付けがましい価値観がバカバカしいことは流石に僕も認める。そんなことを言うつもりはない。しかし、二次元の年下の女の子様という存在の方が僕の生きる性愛の在り方の中では対象としてより自然であり、自分にとって完璧な存在だ、という思いがあり、これが自分の中で非常に強いものになっている。三次元の年上の芸能人・女優は実際には現実に人格を備えた人間として存在しているのであって、僕がマゾ妄想によってそれをオナニーの対象として利用しようとしても、それは彼女たちの本来の、現実の人格とは別に、自分が頭の中で勝手に作り出した別のマゾ妄想に適した人格を利用しているに過ぎないのだ。後者は明らかに前者を前提とし、前者に対して副次的な関係を取り結んでいる。性愛を現実における他人との交渉のなかから隔離した僕にとって、性愛の対象は現実の人格から独立していなければならないのであって、その点で妄想のなかの人格が現実の人格を基にすることでしか成立していない状態は不完全で非本来的なものだとしか思えないのだ。

 

 ここまで書いて、なぜ年下なら本来的であって年上なら非本来的なのかという疑問に対して何ら有効な回答を提出できていないことに気付いた。それは恐らく年下の方が現実的な経験が少なく、その点で無垢であり、しかしそうした異性と自分が性的な交渉を持つという事態が本質的に虚構的だからなのではないか。年上は現実的な経験を積んでいるという点で僕が性的対象とみることをやめたい三次元の年上の芸能人・女優により近い存在だ。相手から対象化されることなしに自分から一方的に対象化することを望むという僕の性愛への向き合い方に対してより適合しているのは二次元の年下の女の子の方だということではないか。僕の性と愛の両面に関する分裂は結局そこに行き着くんだと思う。

 

 なんで2時間くらいかけてこんな文章を書いているのかというと、三日前くらいから三次元の年上の女性の方が興奮するんならもうそっちでオナニーすることを開き直ってしまった方がいいんじゃないかと考えたものの、それは今まで二次元の世界を讃美してきた自分に対する裏切りであり不誠実な態度なんじゃないかと思えたからだ。やっぱり僕は二次元の女の子との関係の方に安らぎを感じる。たとえ性的に興奮しないとしても、僕が愛せるのは二次元の女の子の方なのだ。三次元の年上の芸能人・女優に現を抜かして二次元の女の子を裏切ることはできない。いや、もうはっきり言ってしまうと、僕にとっての性愛とは僕の中で完結したものであるべきであって、現実的な他人との交渉への通路がそこに開かれているとしても、それは不純物でしかない。

 

 と、思いつくままにここまで書いてきたが、そもそもの話現実から完全に隔離された完璧な世界なんてものが存在すると僕は思っていない。現実と非現実という二項対立を立てても、その両方を生きる僕という主体はどうしても現実に身体を持って存在しているのだから。そもそもここに書いてきたすべてが僕の中で自己完結してしまっている。その時点でオナニーというのが僕の性愛の限界であることには間違いなく、どうオナニーするかだけが僕にとっての問題なのだ。