ある夢想家のブログから

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過去を生きるという仕方で現在を生きてしまう自分

 昨晩の「酔って過去を振り返る」とかいう記事、もう文章がめちゃくちゃで日本語になってないけど、ビール2本と梅酒1瓶を空けてろくに文章も書ける状態ではなかったのだから仕方ない。いまはまだ若干酒が残ってる感じはあるが、さすがに文章があんなふうになるようなことはない。

 

 酔って僕が何をするかというと、ひたすら不毛なことだけだ。Twitterで愚痴るとかしょうもないYouTuberの動画を見るとかね。エロゲーをやろうかなという気持ちにもなるのだが、これは名作だなと思っている作品は酔っぱらってプレイしたところで記憶に残らないから、しょーもない抜きゲーしか世の中には酔っぱらったりクスリをキメた状態で創作活動や執筆活動をやってのける化け物がいるそうだが、僕には到底真似できない。

 

 しかし酔っぱらって僕がやってしまうことの中で最も不毛であり、なおかつ僕の人間性が含むなにか重要な問題の一端を指し示していると思われる行為は、過去の自分の日記を読み返したり、過去の自分に関係のある音楽をひたすら聴いたりする一連の反復衝動の表出である。酔うとその人の本質が出るという俗説はよく耳にするが、そうした僕の一連の行為はまさにそれだ。これは何も酒を飲むようになってから始まったことではない。小学生の頃から、わざわざ引っ越してくる前に住んでいた家の近くの公園に行ってそこで遊んでいた日々を思い出しながら、一人で涙を流していた記憶がある。

 

 何故かは分からないが、過去に執着してしまうのが僕の性質になってしまっている。1年前のことを懐かしみ、あああの時はこういうことをしていて、当時の自分はこんなことを思ってこんなことをしていたんだなあ、随分変わったもんだなあ、と事あるごとに考えてしまう。というかそうやって過去のことを振り返るのが自分の生における一つの目的と化している節すらある。

 

 僕はあらゆる物事を目的論的に突き詰めて考える方なので、こうした僕の行為もそれ自体が目的化しているように見えながら、実はその先にある更に高次の目的を目指す手段なのではないかと考えたくなる。過去を振り返ることで僕が得る快感は、それを手段として用いることで僕が何らかの目的に到達しようとしていることの証左なのではないか。

 

 ある哲学者が、過去とは死体のようなものだと言っているが、僕はいまこの文章を書きながらその言葉の意味を噛み締めている。確かに、ある時には大して意味を持たなかった過去が後になってまた別の意味を持って現れてくるようなことはあると思うが、それは私が現在において、未来へ向かう存在としてその過去を既に乗り越えたものとなし、私にとって対象化されることでしか意味を与えられない存在とみているという絶対的な前提のもとで言えることであって、私の現在を乗り越えていく自立性をもった過去は存在するはずがない。それは死体が再び動き出して生者を脅かす可能性がフィクションの題材以外の何物でもないのと同様のことだ。

 

 僕は現在の僕に対して決して完璧な満足を得ることができない。それは人間が未来に向かう存在である以上、今の僕もまた乗り越えられていくであろうことが分かっているからだ。しかしそこで想定される未来の僕という主体は、現在の僕が未来へ向かっていく限りで初めて生み出されるのであって、目的論的に措定された終局に在る主体がそこへ向かう過程にある僕を操っているのではない。僕が主体性を認めるのは常に現在を生きるのりこえの力を持つ主体としてのこの僕自身であり、そこに立脚しない哲学はすべて欺瞞だと言ってもいい。これが僕の立場だ。

 

 僕が過去に執着してしまうのは、今の僕にとって死体に過ぎない過去を対象化することで自己の権能を確認したいという衝動に基づいているのだろうか。いやしかし、僕が過去を想起している時、そうして得てくるのは決してポジティブな充足感などではなく、むしろある種の物悲しさであるように思う。過去の自分は――たとえそれが一分前であろうと一年前であろうと十年前であろうと同じことだが――僕がそれをもう一度そのあるがままの形で生きることが絶対に不可能な何物かであり、そうした意味で現在の僕から永遠に隔てられてしまっている。昨日飲んだビールを今日も買ってきて飲んだところで、それは成分がミクロのレベルで寸分違わず一致していたとしても、僕にそれが現れる仕方としては昨日のビールに次ぐ今日のビールとしてあるのであって、それが昨日のビールそのものとして現れることはありえない。未来へ向けての現在ののりこえは、その根源的な反復不可能性の引き受けとしてしか経験されないのだ。

 

 中学生、高校生の時の日記を見てみると、ひたすら過去を振り返って、あの頃は懐かしいなあだとかあの頃は楽しかったなあだのと書いている。大きな全体の流れだけではなく些細な出来事にいたるまで、過去をまるで宝物であるかのように取り扱いそれを取りこぼさないようにと必死な僕の姿がそこにある。しかし、それらの過去を通して僕が見ているのは常に現在の自分の在り方だ。過去は現在の自分が得てきた経験であると同時に、二度とそれを同じ仕方で反復できないという喪失でもある。その過去の両側面は僕の現在にとって初めて意味を持つ。

 

 いやしかし、本当に重要なのは過去を見つめてそこに溺れることで生きるのも、過去を見つめずにひたすらその日の生活に追われて生きるのも、結局は現在僕がどう生きるかという在り方の選択でしかないのだ、とすべてを一緒くたにしてしまうことではない。なぜ僕が後者ではなく前者によって現在を生きる道を選んでしまうのか、またそれが僕にとってなぜ価値を持つものとして受け取られるのか。問題はその差異にある。今のところそれが一体なんなのかはよく分からないし、だからこそ自分の頭だけで考えていても分からないことを本を読んで学んでいく必要があるわけだが。