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30分点検読書 三冊目:「少年A」の父母『「少年A」この子を生んで…… 父と母 悔恨の手記』(文春文庫、2001年)

※30分点検読書とは→モーティマー『本を読む本』に書いてある点検読書その1「組織的な拾い読み、または下読み」を30分でやる練習。

 

「少年A」の父母『「少年A」この子を生んで…… 父と母 悔恨の手記』(文春文庫、2001年)

1.どんな種類の本か

 97年に起きた神戸連続児童殺傷事件の犯人である少年A(当時14歳)の両親が書いた手記。

 

2.全体として何を言おうとしているのか

 全体として伝えようとしていることがあるとすれば、それは加害者家族による手記らしく、少年Aが拒否している世間に対する謝罪、被害者親族への謝罪という「社会的責任」を遂行する意思の表明だろう。しかし内容としては事件が何故起こったのかを分析するものというよりは、母親として少年Aを育てた日々・共に過ごした日々を回想しつつも、少年Aが何故こんな事件を起こしたのか分からない、そんなことをする子には思えなかった、と途方に暮れる記述が目立つ。

 

3.そのために著者はどのような構成で概念や知識を展開しているか

 父親も著者として名を連ねてはいるが、「この子を生んで……」という題名から分かる通り、母親の手記の方が印象に残る。また実際母親が書いている部分の方が多い。育児日記から事件を起こすまでの小学校・中学校時代の少年Aが母親からどう見えていたかが飾り気なしに綴られている。

 

本の感想

 クソ汚い本屋に100円で放り出されてた本。一昔前はベストセラー本だったらしいが、ベストセラー本なんてのは時間が経てばこうなるもんやね。

 僕が少年Aが起こした神戸連続児童殺傷事件を知ったのは中学二年生の時だったと記憶している。その時の僕はAとまさに同い年だった。僕は中学校から高校にかけて不登校気味で、集団生活が苦手だった。また小学校の時の図工の時間に、何か特定のモデルを用いるのではなく自分の心情をいろいろな色を使って自由に画用紙に表現してみよう、みたいな課題が出た時、凄まじく暗く陰鬱な色を使った作品を仕上げてしまったことがある。それで母親に相当悲しまれて心配された記憶がある。中学3年生の時の美術の時間に「これからの自分の人生を絵にして表現しよう」みたいな課題が出された時は、断崖絶壁で二つに分かれた道の前に自分が立っていて、一方には大量のナイフが置かれていて、もう一方には何だか忘れたがナイフと同じような不吉なモチーフが配置されているという絵を描いて、こんな暗い絵を描くのはやめなさいと先生に注意されて描き直すことになったのを覚えている。今から考えればどんな絵を描こうと自分の自由だし、無理矢理明るい未来に歩んでいくような絵を描かせるのには少しでもズレたところのある人間を抑圧しようとするこの生きづらい日本の同調圧力が見事に発動してるなあと思えてしまうのだが……

 なんか自分語りをしてしまったが、僕はどうしても少年Aの過ごした陰鬱な少年時代を自分と重ね合わせてしまうところがある。他人事だとは思えないのだ。だから僕はこの本で母親が世間に対しておこなっている必死の弁明と、そこで持ち出されてくる母親の目から見た少年Aの像が、少年Aの意識の内側から見た世界、彼の目に映ったこの世界に対する問いかけやそこに附与しようとした意味の内容と絶望的にすれ違っているのを感じてしまう。僕は「元少年A」が5年ほど前に出版した『絶歌』も読んだけれど、あそこで彼が漏らした「僕にはなぜ人を殺してはいけないのか、未だに分からない」という言葉は、世間一般がある価値観を是とし、それに対して問いかけを行おうとする態度をそもそも認めまいとする圧力をかけたところで、絶対にそこに適応できない人間が確かに存在するのだという事実を物語っているものだと思えた。僕は今まで少年Aのような犯罪を起こさずに何とか生きてこられたが、一方間違えたら少年Aになっていたかもしれないし、これからもそうならないなんてことは決して断言できないのだ。

 この本は僕にとって『絶歌』と合わせて読むことにより、世間一般から求められた犯罪に対する社会的責任の遂行という事態に直面したとき、自然とそこに前提された「人を殺してはいけない」という価値観を疑うことなく遂行できる母親と、それを行わなければ生きていけない人生を選んでしまったものの、そもそも何故自分のなしたことが悪なのかが分からず戸惑い、しかし戸惑いながらもそのズレを埋めようとする無益な努力を重ねようとする子供のあいだに絶対的な断絶が存在することを見せつけてくれた気がする。

 以前の抽象的な問題ばかり考えている哲学青年の僕にとってはそうした少年Aの問題意識の方が圧倒的に根源的で重要なものであって、世間一般の側に自然と向き合おうとする姿勢を身につけている彼の母親の立場は表面的だと思えたけれど、むしろ今の僕は同じ家庭、同じ社会で育った親と子のあいだでどうしてそうした精神構造の極めて大きなズレが生じてきてしまうのか、それを問いかけていくことが一番大切であると考えている。それは人間に最初から存在する、漠然としてはいるが形式としてはすべて同等な意識という主体を認めて、その主体が同じ社会を生きる仕方の違いによって生じて来るズレなのか。それとも人間にはもともとそうした主体を認めるべきではなく、主体を形成する社会の方がそれに先立っていると考えるべきか。恐らくそれはどちらも認めなければならないことであって、その相互作用を具体的に分析していく必要があるのだろうな。

 

30分点検読書の感想

 273頁ある本だったけど、最後の100頁くらいは一気にパラパラめくって読み飛ばす形となった。そもそも最初から順々に頁をめくっていって重要な箇所を見つけていく、という読み方自体があらゆる場合に正しいとは限らないんだろうな。手記ということで文章は読みやすかったが、結論を導き出すための議論が展開される本ではないので、どこが重要なのかを客観的に判別しにくかった。少年Aの両親が世間や被害者家族に対して謝罪するところが重要だともいえるかもしれないけれど、ぶっちゃけ加害者家族の手記なんだからそういう記述があるのは当たり前なんだよね。精読する必要はないな、というのが本を読んでの率直な感想だ。こういう結論に行き着くのも点検読書の効用ではあるか。