ある夢想家のブログから

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性愛についての覚え書き

 僕は20代半ばにして童貞だ。彼女ならいたことがあるが、積極的に望んで付き合ったわけでもなくすぐに別れることになった。その時の体験から僕が学んだのは、僕は現実の人間を性愛の対象として受け入れることが不可能な人間なのではないかということだった。

 

 もともと彼女のことを性的な対象として見られなかったし、ベッドの上でキスされた時も、世間の他の大多数の人達が感じられるであろう身体的接触による安心感や快感といった類のようなものはまったくなく、なぜこの人はこんなことをしたがるのだろう、という非常に醒めた気分でその状況を客観視しているかのような精神状態であったように記憶している。他人の唇と自分の唇を重ね合わせるという行為に嫌悪感しか覚えない僕がおかしいのだろうか。真っ赤なナメクジが重なり合って交尾(ナメクジがそうした形での生殖をするかどうかはともかくとして)しているのを見た時にどのような気分になるかを想像してくれればそれは僕が異性と自分のキスに対して抱いている印象と大体同じものなのではないかと思う。そんなふうにしか彼女のことを見られなかった以上、付き合いが長く続かなかったのは当然のことだったといえる。

 

 ではそんな僕が性愛全般に対して悉くそのような嫌悪感を抱いているのかといえばそんなことはなく、他人がセックスしたり付き合ったりする分には勝手にすればいいと思っている。そして僕自身にかんしても、普通にオナニーもするし女の子のことを可愛いなと思ったりもする。むしろより正確に言えば僕はオナニー以外の性愛を必要としていない。オナニーに用いる対象は視覚を通して与えられる外界の像であることもあれば、自分の頭の中に存在するイメージであることもある。しかし重要なのはそれらは意識を通して初めて対象という地位を与えられるという事実だ。その対象はそこで既に僕の意識に包摂され、カント的なカテゴリーがそこで作用するのかどうかはともかく、僕の意識を超え出ることのないそれはもはや自立的かつ能動的に僕を対象化することなく、僕によって対象化される純粋な受動性しか持っていない。僕にとってはその状態こそが性愛の対象として最も心地よいと感じられるのだ。

 

 もちろん僕だって人との関わりを持ちたいと思っているし、相手から自分がどう見えているかを知らされることによって、自分が成長できるのだという経験則からくる確信がある。しかしそれはあくまでも性愛という領域の外部にある他者との関わりであって、それとは逆に性愛において自己が対象化されることに対して強い嫌悪感と恐怖感がある。こうした性愛に対する僕の向き合い方の根底に潜んでいるのは果たして如何なる性質の要求なのか。またそれは人間の在り方全体に対してどのような意味を有するものなのか。僕はこのようなことを今まで考えてきたのだが、何か答えを得るには至っていないし、もっと正直に言えば性愛に対する態度というのは「人それぞれなのが普通だし別にそれで問題ない」という結論に回収されてしまうのが常であり、僕もそっちに傾いて思考停止してしまいがちになっている。もっと深く考えてみたいなとは思うのだが、それに必要な知識の持ち合わせがそもそも極めて乏しいし、なかなかそういう時間もないのが現状だ。

 

 性愛一般に対する僕の認識、立場、疑問の輪郭を描き出すならば大体こんなところなのだが、その内部で僕が抱え、直面している問題として、性と愛の分裂という状況がある。性愛という言葉で一括りにされるくらいだから性と愛というのは世間一般ではある程度一致しているものなのだろう。しかし僕の場合その両者が分裂している傾向にある。

 

 具体性を出すと一気に卑俗な話になってしまうが、具体的に言えば次のような事態僕は二次元美少女が大好きで、幼少期には某国民的アニメ(今や国民的になっている、と言った方が正しい)のヒロインに、中学生の時には今年久々のアニメ化が発表された某作品のキャラクターに恋をした。しかし僕はそれらのアニメキャラクターに性的欲求を感じることができなかった。後者のヒロインのえっちな二次創作イラストで抜こうとしたが性器がなかなか勃起せず、そのキャラクターの関連スレッドに「〇〇ちゃんのえっちなふとももを見ると勃起してしまう」と書かれているのを見て、何故僕はそうならないのかと悲しくなった記憶がある。では僕が何に興奮するのかといえば、三次元の女優や芸能人に対するマゾ妄想である。某女優がブランド物の服を着て椅子に腰かけている写真を見ると否応なしに興奮してしまう。特にハイヒールを履いてそこから白い足指がのぞいているのを見れば、跪いてそれを舐めたいと思ってしまい、自分がそうしている光景を妄想してオナニーしてしまう。もっともこれは今の話で、さきほど例にあげた二つの二次元キャラクターに恋をしていた当時はそんなことはなかったかもしれない。ただ、後者の某作品のキャラクターに恋をしていた当時、そのキャラクターには興奮しなかったが修学旅行でクラスの女子が男子を蹴り上げるのを見てそれで興奮してオナニーした記憶があるので、そうした分裂は結構前からあったんだと思う。自分の性的嗜好はある一定の法則と傾向によって括れるようでいて、そこから溢れ出る部分が常にあるから難しい。もっとも、人間とは変化していくものである以上それはむしろ自然なことかもしれないが。

 

 ざっくり言って僕の性的嗜好には次のような二項対立が見て取れる。対等な愛情/マゾヒスティックな関係、二次元/三次元、年下/年上、の三つである。このうち一番初めの「対等な愛情/マゾヒスティックな関係」については、僕は対等な愛情をもはや求めないようになり、マゾヒスティックな関係が自分にとって本来的なものであると受け止めるようになった。一番初めに書いた彼女との別れもそれが遠因になっているが、僕はこれに関してはもう自分はマゾヒストとして生きるしかないと考えているため、特に後悔もないし不満もない。正常な恋愛ができない人間がいるのは仕方のないことだ。

 

 ただ、二次元/三次元、年下/年上については未だに性と愛との分裂があり、葛藤がある。僕は今でも二次元キャラクターの方が三次元の人間よりも純粋で美しく尊い存在なのだという確信を抱いている。だから上述のような三次元の年上の芸能人・女優に対するマゾ妄想で興奮してしまう自分の性愛の在り方をこれは一体何故なのか考えてみたのだが、二次元の年下の女の子が普遍的にそのような存在でありそれがこの世の真理であるなどという押し付けがましい価値観がバカバカしいことは流石に僕も認める。そんなことを言うつもりはない。しかし、二次元の年下の女の子様という存在の方が僕の生きる性愛の在り方の中では対象としてより自然であり、自分にとって完璧な存在だ、という思いがあり、これが自分の中で非常に強いものになっている。三次元の年上の芸能人・女優は実際には現実に人格を備えた人間として存在しているのであって、僕がマゾ妄想によってそれをオナニーの対象として利用しようとしても、それは彼女たちの本来の、現実の人格とは別に、自分が頭の中で勝手に作り出した別のマゾ妄想に適した人格を利用しているに過ぎないのだ。後者は明らかに前者を前提とし、前者に対して副次的な関係を取り結んでいる。性愛を現実における他人との交渉のなかから隔離した僕にとって、性愛の対象は現実の人格から独立していなければならないのであって、その点で妄想のなかの人格が現実の人格を基にすることでしか成立していない状態は不完全で非本来的なものだとしか思えないのだ。

 

 ここまで書いて、なぜ年下なら本来的であって年上なら非本来的なのかという疑問に対して何ら有効な回答を提出できていないことに気付いた。それは恐らく年下の方が現実的な経験が少なく、その点で無垢であり、しかしそうした異性と自分が性的な交渉を持つという事態が本質的に虚構的だからなのではないか。年上は現実的な経験を積んでいるという点で僕が性的対象とみることをやめたい三次元の年上の芸能人・女優により近い存在だ。相手から対象化されることなしに自分から一方的に対象化することを望むという僕の性愛への向き合い方に対してより適合しているのは二次元の年下の女の子の方だということではないか。僕の性と愛の両面に関する分裂は結局そこに行き着くんだと思う。

 

 なんで2時間くらいかけてこんな文章を書いているのかというと、三日前くらいから三次元の年上の女性の方が興奮するんならもうそっちでオナニーすることを開き直ってしまった方がいいんじゃないかと考えたものの、それは今まで二次元の世界を讃美してきた自分に対する裏切りであり不誠実な態度なんじゃないかと思えたからだ。やっぱり僕は二次元の女の子との関係の方に安らぎを感じる。たとえ性的に興奮しないとしても、僕が愛せるのは二次元の女の子の方なのだ。三次元の年上の芸能人・女優に現を抜かして二次元の女の子を裏切ることはできない。いや、もうはっきり言ってしまうと、僕にとっての性愛とは僕の中で完結したものであるべきであって、現実的な他人との交渉への通路がそこに開かれているとしても、それは不純物でしかない。

 

 と、思いつくままにここまで書いてきたが、そもそもの話現実から完全に隔離された完璧な世界なんてものが存在すると僕は思っていない。現実と非現実という二項対立を立てても、その両方を生きる僕という主体はどうしても現実に身体を持って存在しているのだから。そもそもここに書いてきたすべてが僕の中で自己完結してしまっている。その時点でオナニーというのが僕の性愛の限界であることには間違いなく、どうオナニーするかだけが僕にとっての問題なのだ。