ある夢想家のブログから

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【語学について】しばらくの間和訳を先に見てから原文に取り掛かる学習法に切り替えようと思う

 お久しぶりで~す。って誰も読んでねーか。知ってるけど。

 

 相変わらずフランス語の学習を続けているんだけど、今までやっていた易しめの教材が終わってカッチリした哲学の原文を読む教材に入った途端、一気にモチベーションが下がった。いやモチベーションは全然あるんだけど、教材に取り組むのが一気にハードワークと化した。

 

「この語は見たことあるけどどういう意味なんだ…… まあいいやこのまま読んでいけば意味は取れるはず…… うわ見たことない語が出てきた!えっ、この前置詞どういう意味なの? このqueって関係代名詞と接続詞のどっち? そしてmétaphysiqueときやがった。この文章って形而上学の話をしてたの? 形而上学がどうしたの?あああああなんも分からん!もう嫌だあああああああ!」

 

 大体数行読んだだけでこうなるのがオチだ。思えば、僕はずっとこの学習法をやってきたし、それが唯一の外国語読解のための学習法だと思っていた。ではこの学習法はどこで身に付いたのか。明らかに中学校・高校で受けた6年間の英語の授業で身に付いたのである。いや、より正確に言えば教師からこの勉強のやり方を叩きこまれたのである。

 

 今でもよく覚えているが、授業のほとんどはある程度のヒントが提示されるとはいえ、初見の問題を解かされる訳読の時間で構成されていた。

 

 しかし、これは本当に唯一正しい学習法なのだろうか。確かに、自分で文章を読んでいて出会う初見の単語の意味を調べたり、前置詞の用法を見抜いたり、どのような構文が使われているかを考えたりして試行錯誤することは、英語を体得していく上で必要不可欠な鍛練である、という意見を言う人があるかもしれない。しかし、この学習法はセンスの良い生徒やパズル遊び的な作業が好きな生徒とは相性が良い反面、外国語の文章を読みその内容を理解するという英語学習の本来の目的を、失敗に失敗を重ねて進むしかない茨の道の最果てに据えてしまい、少なからぬ生徒に英語に対する苦手意識を植え付けてしまうのではないだろうか。

 

 僕はその作業をずっと苦痛に思いながらもひたすらやり続け、臥薪嘗胆の末志望校に合格することができた人間だ。しかし、改めて思うとこうした長文読解の方法が前提になってしまっているせいで、今でも英語やフランス語やドイツ語の長文を読む時の心理的ハードルが高い。まず原文と格闘して、ああだこうだと推測しつつ日本語に訳し、ここは合ってた、ここは間違っていたと解答と照らし合わせて一喜一憂しなければ決して先へは進めない。全体の意味を理解できるのはその作業の末に最後まで辿り着いた時だ。そして現に哲学の対訳本に取り組みながら、内容にはめちゃくちゃ興味があるのに訳読のせいで読み進めるのが非常にハードな作業になるという事態に直面している。

 

 そんな時、某読書モンキー氏のサイトにこのような記述があるのを見ておったまげた。

 

 やりかたは、問題と解答をいっしょに見て、先へ先へと進みましょう。
 説明は「はじめからていねいに」ですが、予備校ものなので、登場する英単語は受験レベルです。
 そんな訳で、問題を解きたい、という人も3周目くらいから始めるのがよいです。
 1~2週目はまずは目を通す(黙読する)こと、それも日本語訳→英文の順で読むことです。
 答え(訳文)を先に見ておくことは、心理学(学習理論)で言うところのErrorless Learning(無誤弁別学習)を行うのが目的です。「試行錯誤」を繰り返すより習得が速いことが知られています。
  具体的には、和訳読み→英文(わからないところにマーカー)→もいちど和訳チェック→最後に音読10回。全体を3セット(3周)といった感じでやります。

 

 訳を最初に読む?そんなやり方邪道じゃないのか?と最初は思ったよ。でも、試行錯誤を繰り返しながら学ぶよりも習得が速いと言われているのは気になる。

 

 思い返してみれば、中学・高校の頃にまず最初は原文と格闘して訳読しなければならないと教え込まれたのは、教育の方法にかんする性悪説的な考え方が反映されているようにも考えられる。最初に訳を配ってしまったら生徒がサボって英語に触れなくなる、だから嫌でも原文と格闘しなければならない状態を強制するのが生徒の指導法として正しいのだ、みたいな。でも今の時代インターネットで教科書の訳なんていくらでも見られる。現に僕の高校時代も、クラスの運動部の連中なんかはネットで訳が載ってるサイトを見つけてそこから写していたし、ひょっとしたら僕も今はっきり思い出せないだけで当時はそうしたことがあったかもしれない。これは原文と格闘させるなんていう教師の意図が容易に破綻することを示す事実だといえる。

 

 もういっそ、最初に日本語訳を配ってそれを活用して英文を理解させ定着させるという指導法を採用するのがいいのではないだろうか。そう思って調べてみると、金谷憲という人が『高校英語教育を変える和訳先渡し授業の試み』と題された本を出していて、「和訳先渡し授業」を実践しその結果を報告しているらしい。調べて見ると若林俊輔の『これらの英語教師』という本でも和訳先渡し法が提案されているらしいし、森一郎も『試験にでる英単語』で和訳を先に見てから英文に取り掛かることを推奨しているようだ。最近出た『ヘミングウェイで学ぶ英文法』という参考書でも、まず和訳から入ってその後原文に触れるという構成になっているらしい(勿論これは原文から入るというその逆の学習法を排除するものではないだろうけれど、構成上和訳から入ることを推奨しているのは確かだろう)。ベレ出版の『名作短編で学ぶイタリア語』という参考書の紹介ページにも、「日本語訳を先に読み、内容をつかんだうえで原文にあたるというのもひとつの手だと思います。」受験のための学校教育としての語学の世界にも教養や第二外国語としての語学の世界にも多様な意見を持つ人がいるのであり、訳読から入らせる学習法が唯一正しいものだとは決して言えないことが分かる。

 

 教育の現場となるとまた難しい問題がいろいろ出てくるだろうから、その妥当性にかんして門外漢にすぎない僕が個人的な経験則に基づいてあれこれ口を出すのは控えることにする。だが、まず和訳を見てから外国語の文章に取り掛かるというのは、独学で外国語を学ぼうとするモチベーションに溢れた人間がより楽しく、挫折せず学習を進めるにはうってつけの方法だと思う。モチベーションに溢れていればどんな苦しみにも耐えられるだろ!と考えるのはそもそも前提からしておかしい。モチベーションが高くても低くても勉強は楽しい方がいい。

 

 一通り文法を終えて少しずつ易しめの文章なら読めるようになってきたという人間(今の僕がまさにこれ)は、早く自分の外国語学習の目的としている文章を読みたいと願っているものだ。しかし、そのような目的となる文章はその言語の母語話者が読んでも価値のある文章であって、「私はトムに会った」とかその類の人工的で無機質な文章とは違い、生きた血が通っている。だからこそ難しいし、それをその言語を通して思考し理解したいと願っているのである。そうした学習者には、まず日本語訳を通して大体の意味を取り文章の「内容」を楽しんだ後で、それを表現する言語の世界へと足を踏み入れていく方がいいと思う。日本語訳を読んで終わりにするなんて発想は元から存在せず、その内容を楽しむという経験が原文で理解したいというモチベーションに繋がるのだから。

 

 自分で四苦八苦してガタガタの日本語訳を組み立てた後、訳者のお手本を見せられて自分が如何に無能なのかを思い知らされ、そこから出発してまた原文に立ち戻っていく場合、一人で格闘した長い時間が単なる消耗感にしか結びつかない。良い線までいけたと自分で感じられる場合ならまだしも、「こんな訳意味わかんないしどうせ間違ってるだろうな→はい間違ってました」というのは単なる苦行でしかない。それに対し、訳者のお手本をまず見せてもらった後原文に取り組む場合、内容に興味があるのだから最初の日本語訳を読むのは楽しいに決まってるし、それからの文章読解の作業も「こういうことが書いてあるんだな。よしやるぞ」となって充実したものになるだろう。要するに良い事づくめというわけだ。今まで何をやってきたんだろう僕は。受験のための英語を強制してくる学校教育に毒され過ぎていた。

 

 ただ、当たり前の話だがある外国語をものにするということはその言語を母語(僕の場合は日本語)の媒介なしに理解するということであって、日本語訳に頼らないと意味が取れない状態はいつか脱しなければならないもの、いわば補助輪だということは肝に銘じておく必要がある。日本語訳で一度文章の内容を掴んだらそれを原語で理解するために精読する、というやり方の欠陥はここにある。そうなると初見の文章を読むための訓練を並行させる必要もあるだろうか……

 

 まあ、先のことばかり考えていても仕方ない。語学をやる時、どの道を進むか、その先に何があるかということばかり気にして結局一歩も進まないというのは常に起こり得る事態だ。とにかく僕は今まで読書においても語学においても、受験で叩きこまれてしまった悪い癖に毒されているなと思う節が多々あるので、迷走しないよう着実に前に進んでいるかを自問自答しつつ、いろいろと今までの自分の殻を破るような勉強法を試していきたい。