ある夢想家のブログから

哲学とか語学とか読書とかエロゲーとか

ゲーム依存、感情依存

 今日も某ノベルゲームを12時間くらいやっていた。ホント、自分のダメ人間っぷりにうんざりしてしまう。1日1時間と決めて楽しむ分にはいいんだけど、どうしてもそういうふうにはできない自分がいる。1分たりともプレイしないか、それともこうして一日中プレイしているか、そのどっちかに傾いてしまいそうになる。ホント、意志が弱い。

 

 仏教の十戒には不歌舞観聴があり、また八斎戒には不得歌舞作楽塗身香油戒がある。どちらも歌曲や演劇の鑑賞を禁じている。感情をむやみやたらに振り回そうとするものに身を委ねて自己を忘れるのは仏教徒としてあってはならぬことだ、としてこれらを禁じる戒律があると聞く。僕は仏教徒ではないが、仏教の教えの根本にシンパシーを感じている人間としてこうした考え方はある程度理解できる。娯楽として読むのに適した小説の類は、基本的に我々の感情に働きかけてきて、それらを揺り動かすことで我々に満足を得させる。しかし、この効果はアルコールやギャンブルに近いと思う。この手の満足に終わりはなく、それを追求すればするほどズブズブと沼に嵌っていくのだ。これを繰り返すたびに平凡でつまらない、何の刺激もない日常とそうしたアディクションによって得られる強烈な刹那的快感との間の溝はどんどん深いものとなっていき、日常に生彩を与え我々をリラックスさせてくれる効果を求めてこれらの対象を消費、享受するのか、それともこれらを消費・享受することで我々の日常がつまらないものとなってしまっているのか、区別がつかない状態になる。だったら原則としてそのようなものとは縁を切るべきである、というのが仏教の教えだろう。

 

 今日やっていたノベルゲームも、まあこれはこれで面白くて考えさせられる作品ではあるのだが、僕が自分の人生をより自由に生きることの障害になっているのは認めざるを得ない事実だ。僕は喜怒哀楽といった感情にあまりにも引きずりまわされるのは避けるべきだと感じる一方で、それらが人間という存在の本質にかんして何ほどかを語っていると認めるにやぶさかではない。ただそれらを求めて生きるような生に虚しさを感じてきたことも事実だ。僕は今までの人生をそうした永遠に完結することのない感覚的満足を求めて生きてきたきらいがある。だからそうした自分を一歩引いたところから冷静に見つめるべき時期が来たのではないかと思えてきている今日この頃である。人間的であるということにかんする探究に燃える知識欲だけはそれがどんなに煩悩呼ばわりされようが捨て去るべきではない、というのが僕の意見だが、それを実行するためにもなるべく感覚的・感情的な依存の対象から離れた生活を送っていきたい。

何かに依存してしまいがちな自分

 Fate/stay night のHeaven's feelを今やってるんだけど、桜にかんする真相が明らかになったところから、やっぱりもうやめられなくなってしまっている。このままではまたUBWのように終わりまで一気にプレイしてしまいそうだ。

 

 どうも僕には何かに依存してしまう体質があるらしい。子供の時からそうだった。具体的に今依存しているものを挙げると、たった今話したゲームであり、アルコールであるのだろう。アルコールに依存してしまっていることは自分でも認めたくないのだが、週1回~3回飲まなければやっていけない体になってしまっているのは事実だ。中には週7回飲んでいるのにまだ自分は依存していないと思い込んでいる人間(うちの父親がそうなのだが)もいるようだが、僕にはこれで自分が十分依存しているように感じられる。数年前はソーシャルゲームに手を出していたが、総計20万円ほどガチャで金を溶かしてしまいこれはさすがにまずいと気付いてやめた。しかし自分の依存体質はけっきょく変わっていないように思える。

 

 依存体質というのはある種の没入体験への希求が恒常的になっている状態、と定義できると思う。脳内物質が云々とかそういった科学的な事柄に関しては疎いが、自分で主体的に何かに働きかけるのではなく、ある物に自分の意識の志向が固定され、受動的に突き動かされている状態だ。以前からそうした状態を求めてしまう自分がいる。Twitterのタイムラインを自分が眺めているのではなく、タイムラインの流れに自分が組み込まれているような状態。「酒は飲んでも飲まれるな」という言葉に端的に示されるように、自分が酒を飲んでいるのではなく、酒の方からそれを飲むことを強いられている状態。ノベルゲームの文章を自分が読んでいるのではなく、文章の流れのなかに自分の意識が組み込まれている状態。自分が映画を見ているのではなく、映画という一連の映像の流れに自分の意識が組み込まれている状態。本来それ自体として意志を持たず単なる物に過ぎない何かの方が意志を持ち、本来人間として意識を持ちあるものに対して働きかける能力を有する自己の側が、意志を持ったそのある物に対して対象化されているように感じられる経験。依存症にはこうした没入体験が付き物なのであり、僕は極めてそれに取り込まれやすい人間だと思う。

 

 こうした没入体験に入り込むのは何故気持ちいいのか、何故それを多くの人が求めてしまうのか、それは良く分からない。これは哲学的には「アクラシア」と言われる問題であり、古代ギリシャソクラテスアリストテレスから現代に至るまでその本質が問題にされてきた。しかし、依存症という問題にかんして究明するのと、自分自身で依存症から脱却するのは別の問題だと思う。僕の知り合いの哲学研究者が「知り合いにアクラシアの研究をしている人がいるけれど、その人自身はヘビースモーカーで2時間も煙草が吸えないと目に見えてイライラし始める」と言っていた。これは依存症について知的な照明を与えることと、自分自身そこから脱却することが――少なからず重なり合う部分はあるのだろうけれど――究極的には別問題であることを示している事例だといえる。

 

 僕は世間一般で依存症になり得ると言われているものには一通り触れてきた。その中でパチンコ、煙草、ソーシャルゲームは短期間でやめられた(ソーシャルゲーム以外はそもそもある程度の依存症になる前にやめてしまった)。しかし女性(ただし二次元美少女)、性的欲求(ただしオナニーに限る)、ゲーム(ごくまれに面白いのを見つけると依存的になってしまう)、酒(飲み始めた時から数えてもう5年はやっているのだから十分依存症だといえるだろう)はやめられない。あと二郎系ラーメンをここに数え入れてもいいかもしれない。依存する対象にかんして個人差があるのは何故かというのも気になるのだが、それはさておき、僕は今挙げた四、五の対象に依存してしまっていることは間違いない。そうして自由な時間が与えられればそうしたものに使ってしまいがちだ。

 

 できればこうした対象への依存から脱却したい。女性も性的欲求の充足もゲームも酒も、それ自体節度を持って楽しむということができればよいのだが、僕にはどうしてもそれができない。一度やり始めると、もうこのまま行き着くところまで行き着いてしまえ、という気持ちになってそのまま突き進んでしまうのだ。その後でどうしても虚しくやるせない気持ちになってしまう。酒について言えば単に薬物の効果によって脳をバグらせてハイになっている薬物中毒だし、最近では飲んでいても楽しいと思うことがなくなってきてしまったのでもう完全にやめようと思っているのだが、人生で楽しみがあるのはいいことだと思う。しかし、僕は人生に楽しみがあるということよりも、その人が自分の人生で自由たりえていることの方に価値があると思う。だから依存症的な楽しみ方は人が善く生きる上でどうしても避けなければならないと思う。

 

 さて、問題はどのようにしてそれを実行していくか、なのだが…… これはまさに「わかっちゃいるけどやめられない」であり、僕はこれを書いた後、充電が終わったスマホを手に取り、F/snHFをプレイし始めてしまっているに違いない。ほんとに「わかっちゃいるけどやめられない」だし、辛い。今はこれをなんとかしなきゃいけないものとして認識できただけ良しとしよう…… アディクションに対応できるように心を鍛えていきたいと思います。

哲学の大学院に行くべきか否か迷っている

 大学院に行くべきか否か、正直言って分からなくなってきてしまった。

 

 もちろん僕がブルジョワ家庭出身でありろくに働きもせずに生きていけるならば迷わず大学院に進むのだが、とことん若きプロレタリア階級に冷たいこの日本では真の意味での「奨学金」はほぼ無いに等しく、あるのは「奨学借金」のみである。大学院に行くとなると「奨学借金」として200万円程度の借金を背負うことになる。200万円。

 

 今までよく考えてこなかったが、僕にこれだけの借金を背負うだけの覚悟があるのか。過去にコンビニやスーパーやおもちゃ屋でバイトしたことがあるが、そこで稼いだ額は総計200万円どころか100万円にも満たないと思う。大学院に行くということは、過去にしてきた総労働の倍以上の負担を背負うということであり、その意味は決して軽く考えてはいけないものだ。もちろん返せなければすぐ家に黒服の屈強な男達が押しかけてドアを蹴り上げてくるとかそこまでではないだろうけれど、200万円という借金を背負うことによって僕は真綿で首を締められるような苦しみによってその先じわじわと蝕まれるに違いない。果たして僕にそんなことができるだろうか。こうした実際的な問題がまず一つとしてある。

 

 そしてそれとは別に、僕にとって大学院に行くことは本当に意味があるのだろうかという問題がある。僕は哲学の院に進もうと思っているのだが、大学院とはなぜ生きるのか、人生で何をなすべきなのか、確固たる真理は存在するのか、人はなぜ道徳的であらねばならないか、云々といった哲学の問いを自ら探究する場としての意義を直接的に有する場所ではない。哲学に興味を持つ人なら誰しもこうした問いを抱いているとは思うけれど、大学院ではあくまでそれは個人的な研究への動機として胸の裡に忍ばせ、着々と論文を仕上げ、日本の哲学研究にとって意義のある学問的な貢献を果たさなければならない。しかし僕がやりたいのは本当にそんなことなのだろうか。

 

 青臭いけれど正直に書くと、僕が一番切実に知りたいのは人間的であるとはどういうことか、また人間的に生きるためには何をなすべきか、ということだ。極めて抽象的な問いではあるが、しかし人として生まれてきたからにはこの問題を一生かけて追究していくべきだと思っている。それは単なる静観的・観照的な思弁の立場から体得される外的な対象としてあるのではなく、自分が人間という存在のなかを切実かつ誠実に生き抜くことによって、知と存在の次元の双方を包含するものでなくてはならないだろう。そのためには当然ながら、曲がりなりにも恐らく人間として生きてきた自分の生を唯一の参照項として思索しなければならないはずだ。まあこれは今本題として取り上げるべきことではないからひとまず措いておくが、こうした問題意識は恐らく哲学研究をやる大学院で直接的に求められるものではないのだ。あくまでも便宜的にだが、僕が今少し書いたような哲学的思索と大学院での哲学研究は別のものとして考えておいた方がいいのではないかと思う。

 

 正直言って僕は今言ったような意味での哲学研究をそつなくこなす自信がない。コツコツ積み上げるのがどうしても苦手だし、それを限られた一定期間に要求されることに耐えられるかどうか分からない。いや苦手だとかやれるかどうか分からないとか言っている時点で、僕には研究の適性がない可能性が高いんじゃないかと思ってしまう。大学院に行きたいという僕の思いは、もう一度大学に通いたい、「学生生活」をもう一度味わってみたいという未練に突き動かされているだけのものじゃないだろうか。そして何よりも重要な問題は、僕は大学院で哲学の専門的な教育を受けた者としての肩書を貰い、あわよくばそれで哲学に関して一定程度精通した者として認められようとしているだけではないのか、それはある程度普通とはズレたルートではあるにせよ、結局はもっと分かりやすく凡俗な例と本質的に何ら変わるところのない名誉欲・功名心のあらわれなのではないのか、ということだ。そんなことなら大学院に行かずさっさと就職した方がいいだろう。

 

 キルケゴールマルクスサルトル…… 僕が尊敬している哲学者には少なからずアカデミズムの世界からは外れたところで強靭な精神力をもって思索を続け、有象無象の職業哲学者などよりもずっと壮大な哲学の地平を切り拓いてみせた者たちがいる。僕は哲学者などと名乗るのすらおこがましい人間だけれど、こうした哲学者たちからはその時代における学術研究の世界だけが人間についての学としての哲学を規定しているのではないということを、つまり言い換えれば知を愛するという生き方を実践することはアカデミズムの世界で生きる人間の特権ではないということを教えられる。

 

 大学院に行くという選択肢については見直してみようと思う。勉強は続けていくが、院に行くことを前提とした形にはしない。今はこのコロナショック(関係ないけど「コロナ禍」って言い回しは変だと思う)だから、しばらくは家に引きこもっているつもりだけど、自分なりにサルトルなんかを読んでこれからどう生きるべきか考えていきたい。

思うように勉強が捗らない

 5月に突入してしまったのだが、思うように勉強が捗らない。英語とフランス語を一日5時間ずつ勉強しようと考えているのに、今日は英語を4時間しかできなかった。そのうえその英語もノルマに達しなかった。

 

 5・6月のうちに英語では伊藤和夫『英文解釈教室』(こちらは例文のみ)篠田重晃『英文読解の透視図』を、フランス語は川本茂雄『フランス語統辞法』朝比奈誼『フランス語和訳の技法』を終わらせて、7・8・9月は哲学の原文読解と哲学の学習を並行してやろうと思っているんだけど、正直どうなるか分からない。8月中に研究計画書を書いて提出しなきゃならないということもあるし、先行きは不透明だ。そもそもコロナのせいで院試が中止になってしまう恐れもないとはいえない。

 

 文系の大学院、それも哲学科に行きたいという変わり者はなかなかいないから、院試に受かった落ちたという体験談やデータがそもそも見当たらない。院試なんて簡単なんだからどうせ受かるでしょ、と大して事情を知らない人がよく言っているが、僕が入ろうとしているところは英語と他の言語を一つ選択する必要がある。つまり二つの言語にある程度通じていることを求められるのだ。おまけに哲学の知識も必要になってくる。本来なら学部で3年間かけて鍛え上げるこれらの基礎学力を1年足らずで身に着けるって結構厳しいんじゃないかと思うんだけどなあ。哲学科の院試に落ちた人、一人知ってるし。

 

 などと愚痴っても始まらないので勉強はしっかりやろう。でもそれをやれるだけの精神的余裕がない日だってどうしてもある。今日がそうだった。何故なのかは分からないけどとにかく精神的に落ち込んでしまう。そして酒を飲みたくなってしまう。現に今も飲んでいる。精神的に落ち込んでいる時に酒を飲むのはよくないし、しかも身体にも良くない。なのにどうして飲んでしまうのか。

 

 僕が自分の人生でやりたいのは酒を飲むことだったのか?いやそうじゃない。僕は主体的真理を追求するキルケゴールの熱誠に感動し、常に状況にengagerしていこうとするサルトルの時代に応答せんとする主体的で他者に対して開かれた態度に心を揺さぶられ、自分もそのように自己に対して、他者に対して、世界に対して誠実であろうとして哲学の道を歩もうと決めたのではなかったか。だが今の僕はどうだろう。精神的にとても打たれ弱く、すぐにこうして精神的に落ち込んで酒に逃げてしまう。僕の人生はこんなことの繰り返しで終わってしまうのだろうか。僕は世間様から認められる知識人様になりたいわけでもないし、もちろん社会で成功したいわけなんかじゃない。自分の人生を何らかの形で意味あるものとして生き抜きたいんだ。でもそれがどれほど難しいことか。何せそれをどのように実践していけばいいのかを指し示す確固たる光明といえる何か、その何かをちっとも見出せないでいるのだ。僕は未だに自分の人生を生きるためのスタートラインにすら立てていないのではないか。一体いつになったらそこに立つことができるのだろうか。それとも僕はそうした使命感にも似た情熱を忘れ、外的な力に突き動かされて疎外された労働に順応するようになり、そこで一時の気晴らしを頼りになんとか生き延びて力尽きるような生を送るのだろうか。怖い。怖くてしょうがない。しかし、もしかしたらこの不安こそが生きるということなのではないか。

Fate/stay night [Realta Nua] 凛ルートをやり終えた感想

【この記事もネタバレを含むので注意】

 

 凛ルートを今日でやり終えた。

 

 文字通り朝から晩までそれしかやらない生活を送っていたら2日で終わってしまった。プレイ時間は25時間ほど。シナリオが盛り上がって来るまではセイバー、凛、桜、イリヤ以外のキャラのボイスをオフにしてたらセイバールートよりも短時間で終わってしまった。

 

 自分の信念がたとえ他人を真似ただけのものであっても、またその信念が実現不可能だという結果が見えていても、信念を実現しようとして理想へ向かう態度を貫くこと自体に価値がある、っていうのが凛ルート・UBWで士郎が見出したことなのかな。しかし、物騒な例を持ち出してしまうが、それではたとえばオウムの麻〇を獄中でも死刑執行まで信じ続けた新〇智光の生き様は正当化されうるのか、などいろいろ思う所はある。いやでもFateはやはり奥が深いですな。考えさせられる。

 

 UBWはセイバールートに比べて各サーヴァントのキャラがちゃんと立ってて、使い捨て要因があまりいないのも良かったです。キャスターはセイバールートでは単なる噛ませ犬だったけどUBWでは宗一郎との関係ですごく魅力的なキャラになってた。ライダーが唯一人損な役回りだったけどそれは桜ちゃんルートで補完されることを期待しておこう。

 

  凛ちゃんルートではあるが圧倒的桜ちゃん推しなので彼女の話をするが、桜ちゃんが間桐家に養子に出された実の妹であることを仄めかしつつ(まだHFやってないから100%確実とは言えないけどネタバレ食らってるし90%そうだろう)最後は士郎と二人の愛の巣を築くことしか頭になかったのがやや不満ではあった。まあでも、慎二と病室で仲良かったのは良かったんだろう多分。セイバールートよりも慎二はクソ野郎っぷりがすごかったし、ラストバトルではあんな姿に成り果てるという損な役回りだったけど、それでも生き残るんだからなかなか悪運の強い奴だと思う。

 

 でもこの流れでいくと次は桜ちゃんルートよりもむしろイリヤスフィールルートがくる方が自然だと思うんだよな。発売当時は「えっここから桜なの?」と多くの人が思ったのではなかろうか。ここからセイバールート・凛ルートに何がつけ加わるのか僕にはまったく予想できないけど、HFは絶対にこの想像力貧困な僕が追い付くべくもない怒濤の展開になるだろう。いろいろと今から楽しみだ。

 

 ちなみに今日からゲームは一日一時間の教えをきっちり守り、受験勉強と並行する形で進めてまいります。桜ちゃんルートは長丁場になるそうだしね。

Fate/stay nightにのめり込みすぎなのが心配

 Fate/stay nightのセイバールートをべた褒めする記事書いた直後だけど、こんなんでこの先大丈夫かって気持ちはある。ゲームにのめり込むように語学や哲学書にのめり込むことってできないんですよね。寝食を忘れてやらなくちゃいけないと思っているのはむしろこっちなのにな。ゲームは語学や哲学書と比べてお手軽だからなのかなんなのか。「ゲームへの集中は勉強と違って対象にコントロールされた集中」という説明をネットで読んで、抽象的でイメージ先行の説明だがなんか説得力あるな、と思ってしまった。はやく桜ちゃんルートに行きたいしあと数日は一日中Fate/stay nightやる日々が続きそうです。桜ちゃんルートに突入したら1日1時間とちゃんと決めてじっくりやるつもり。

Fate/stay night [Realta Nua]のセイバールートをクリアしたからちょっと語ってみる

【※この記事はFate/stay nightセイバールートのネタバレを含みます。未プレイの方、プレイ中の方はご注意ください】

 

 ひょんなことから最近Fate/stay nightを始めた。やっているのはAndroid版の[Realta Nua]だ。一番最初に出たエロゲー版と違って性的描写はだいぶカットされている。ただしグロテスクなシーンは割とある。

 

 結果から言うと、ドハマりしてしまった。こんなにノベルゲームに夢中になれたのはいつ以来だろう。ノベルゲームは中学生の時からやってきたけど、文字通り寝食を忘れるくらいのめり込んでしまっている。今回は僕が何故そうなるに至ったかという経緯と、僕がこのセイバールートの魅力だと感じた二つの側面について思いつくままに語ってみようと思う。

 

 冒頭でひょんなことからFate/stay nightを始めたと書いたが、具体的に言うとそれは間桐桜ちゃんのイラストがTwitterで流れてきて、うわっ可愛いなこの子!と思ったことだった。僕は二次元の女の子に時たまこういう感覚を抱くことがある。いわゆる一目惚れというやつだろうか。まあよく分からんが。三次元の女性に一目惚れをする人間の話はあちこちで聞くけど、二次元の女の子に一目惚れする人間は珍しいかもしれない。でもとにかく僕にはそういうことがたまにある。『さよならを教えて』をプレイしていて、上野こよりが最初に出てきた時もそうだった。田中美智さんのぽわぽわした声も相まって、こよりには完全にノックアウトされてしまったのだった。2年前の話だ。今回の間桐桜ちゃんへの感情もそれに近いものだと思う。

 

 Fateシリーズのファン歴8年くらいの友人がいたので、間桐桜ちゃんめっちゃ可愛いんだがどこから始めればいいのと聞いてみた。stay/nightから始めればいいよとのことだった。それなら18禁描写もちゃんと入ってるエロゲー版の方がいいよな、と言ったら、でもエロゲー版は声がついていないという欠点があるらしい。声を取るかエロを取るかの選択である。エロゲー版は昨年復刻されているが1万円以上するということもあり、金欠ニートの僕はとりあえずセイバールートが無料でできるAndroid版の[Realta Nua]を選ぶことにした。

 

 受験生なので(ちなみに大学の学部受験生ではない)、香川県民ではないが1日1時間をちゃんと守ることを決めてプレイを開始した。プロローグが終わって桜ちゃんが起こしに来てくれるところから始まるので歓喜したが、進めるにつれどうやらセイバールートでは桜ちゃんは冒頭の数日で退場してしまうらしいと分かりションボリする。友人が「桜ルートまで長いから耐えるしかないな」と言っていたのを思い出し、まあ頑張って耐えるかとあまり気乗りしないまま進めた。魔術や聖杯戦争についての説明台詞がかなり多いセイバールートは世界観の説明の機能も兼ねてるんだろうな、とか、セイバーは見た目は可愛いけど不愛想だな、とか思いつつ、「2月5日 BLADE」あたりまでは有名なだけあってそこそこ面白いな、くらいの印象だった。

 

 のめり込み始めたのはセイバーと士郎が道場で剣術の特訓を始めた辺りだろうか。ここらへんからサーヴァントとしてマスターの剣に徹しようとしていたセイバーの内面が少しずつ見え隠れするようになっていく。そしてライダー戦のあと、冒頭で誰もがこんなの勝てるわけねえだろとトラウマを植え付けられたバーサーカー戦がやってくる。セイバーが宝具を使って魔力を消耗し、消滅寸前の状態でこれなのだからもうめちゃくちゃハラハラさせられる。勝ち目があるとはとても思えなかった。もうこれどうするんだ、と目が離せなくなっていった。それをろくに魔術なんか使えないヘッポコだった士郎の投影魔術によって突破する展開が熱すぎた。ここらへんで1日1時間という制限は僕のなかでもうどっかに行ってしまった。これはそんなケチケチした姿勢で読むのがふさわしい作品なんかじゃないと完全に悟っていた。

 

 ただ、バーサーカー戦があまりにも熱い展開だったし、その後残っているサーヴァントはアサシン、キャスター、ランサーというあまりパッとしない面々だったため、この後は尻切れトンボで終わるんじゃないかなと危惧していた。しかし実際はまっっったくそんなことなかった。前回の聖杯戦争の残存サーヴァントであるギルガメッシュというあまりにも規格外の強敵が現われ、聖杯が願いを叶える力を持った聖なる存在などではなくあまりにも禍々しい呪いに過ぎないことが明らかになり…… バーサーカー戦でこれがピークだろうと踏んでいた最大風速がいとも容易く突破されていくような感覚に打ち震えた。

 

 過去の神話上の人物や英雄が繰り広げる夢の文明間クロスオーバーバトルという世界観の圧倒的な壮大さと、それを士郎&セイバー、凛&アーチャーが次第に戦友としての関係を深め、時に成長しながら勝ち抜いていく少年漫画的な熱さ。僕がまずこの一側面がFate/stay nightセイバールートの魅力だと主張したい。

 

 しかし、それでいて士郎とアルトリアが愛し合うようになっていくギャルゲー(エロゲー)としても十分成立しているということ、これこそFate/stay nightセイバールートの魅力のもう一側面だと思う。もちろんこれはなんか知らないが士郎の周りに桜ちゃん、藤ねえをはじめセイバー、凛、イリヤスフィールといった萌え属性てんこ盛りの美少女キャラが集まってきてみんな士郎のことが好きで異性として多少意識してもいる、という表面的形式的な展開によっても担保されているものでもあるのだが、そんなのは大した問題ではない。士郎とセイバーが愛し合うようになっていく過程は、お互いに自己犠牲と己の信念に殉じようとするが故にすれ違い、また自分に欠落していたものを意識できなかった二人がサーヴァントとそのマスターという型にはめ込まれた契約関係を超え、お互いに一人の人間として相手に向き合うようになっていくさまを描いたものであったと思う。その過程で多くのものを得たのは士郎よりもセイバーだったろう。国を滅ぼしてしまった自分の過去を闇に葬るべきものとしか考えなかった彼女が、それを引き受けることこそ、自分にとっても生前の自分と関わりのあった人々に対しても誠実であると受け止められるようになったのだから(一方で士郎の成長っていうと「セイバーは女の子だから戦っちゃいけないんだ!」みたいなアホくさいジェンダー規範を振りかざすのをやめて、セイバーを異性であると同時に人間としても尊重することを学べたって点くらいだろうか)。

 

 そして何よりも、この相異なる両側面はしっかり結びつき、不可分のものとして進行している、そこが本当に素晴らしいと思う。

 

 Fate/stay nightのセイバールートがあまりにも面白くて、10日間で一気にプレイしてしまった思ったことを書き殴ってみたが、とりあえずこんなところかな。大学生の頃に周りにFGOやってる奴はたくさんいたし、Fate/zeroのアニメ版は高校生のときに2話くらい見たし、凛ちゃんのエロ同人でナニしたことは過去にあった。でもFateってコンテンツとはその程度の関わりしかなく、自分の周縁にあって誰か他の人が熱心になっているものというだけの存在だった。それにこれほどのめり込んでしまう日が来るとは思わなかった。一日中Fate/stay nightのことしか考えられない日が続いているし、文字通りここ数日は受験勉強ほっぽりだして一日中やっている。まだ桜ちゃんがどういうふうに聖杯戦争に関わって来るのかさっぱり予想できないけど、延期になったHeaven's feel最終章の公開前にゲームをクリアして、劇場で桜ちゃんに会いたいなあ。

 

 セイバールートの次は凛ルートなわけだけど、一体どうなるんだろう。セイバールートの凛ちゃんは主に説明係で、バーサーカー戦や士郎VS綺礼戦では必要不可欠な存在だったけどまあ言ってしまえばサポート役だった。凛ルートではいよいよ聖杯戦争で本格的に戦う凛ちゃんの姿が拝めるんだろうか。そしてそして、流石に凛ルートでも桜ちゃんが今回のように冒頭で退場してエピローグに出てくるくらいで終わり、そのままいきなり桜ルートに移るとは思えないし、桜ちゃんの重大な秘密が凛ルートで多少は明らかにされたり伏線が張られたりするんだろうか。うわーめちゃくちゃ楽しみ。ではそろそろスマホの充電が終わるのでまたFate/stay nightの世界にダイブします。